コメント
初耳の曲です
F爺様
「故郷を離るる歌」も、学校で習ったことはありませんでしたし、
今回もYou Tubeで聞いてみたのですが(今回は、NHK東京児童合唱団と、)、全くの初耳でした。
ですが、歌詞の拍数と、旋律の拍数とが一致しておらず、
しかも不自然に聞こえてくることはすぐに判りました。
歌詞の、
~垣根の千草 今日は汝(なれ)を眺むる終りの日なり 思えば涙 膝を浸す
この部分ですが、私は一読して、
垣根の近くでしゃがんで、そこに自生した小花を眺めている
そんな状況が浮かびました。顔の真下に膝が位置しますので、こぼれた涙が、膝に落ちるのも、不自然ではないと思います。
「早春賦」と、「故郷を離るる歌」の記事を読んで、
耳にすんなりと入ってくる曲と、そうでない曲との違いは、音調と拍数、単語の本来の抑揚などが、おおいに関わっているのだな、と判りました。
歌の楽しみ方が、ひとつ増えました。ありがとうございます。
「故郷を離るる歌」も、学校で習ったことはありませんでしたし、
今回もYou Tubeで聞いてみたのですが(今回は、NHK東京児童合唱団と、)、全くの初耳でした。
ですが、歌詞の拍数と、旋律の拍数とが一致しておらず、
しかも不自然に聞こえてくることはすぐに判りました。
歌詞の、
~垣根の千草 今日は汝(なれ)を眺むる終りの日なり 思えば涙 膝を浸す
この部分ですが、私は一読して、
垣根の近くでしゃがんで、そこに自生した小花を眺めている
そんな状況が浮かびました。顔の真下に膝が位置しますので、こぼれた涙が、膝に落ちるのも、不自然ではないと思います。
「早春賦」と、「故郷を離るる歌」の記事を読んで、
耳にすんなりと入ってくる曲と、そうでない曲との違いは、音調と拍数、単語の本来の抑揚などが、おおいに関わっているのだな、と判りました。
歌の楽しみ方が、ひとつ増えました。ありがとうございます。
Re: 初耳の曲です
「106」さん
>歌詞の拍数と、旋律の拍数とが一致しておらず、
しかも不自然に聞こえてくることはすぐに判りました。
先入見無しに初めて聞く人は、皆さん同じことをおっしゃいます。F爺が初めて聞いた時の印象もそうでした。「何語だろう !?」と思ったものです。
>歌詞の、
~垣根の千草 今日は汝(なれ)を眺むる終りの日なり 思えば涙 膝を浸す
この部分ですが、私は一読して、
垣根の近くでしゃがんで、そこに自生した小花を眺めている
そんな状況が浮かびました。顔の真下に膝が位置しますので、こぼれた涙が、膝に落ちるのも、不自然ではないと思います。
えっ、そうでしょうか。
明治時代の男が庭に生えている草本の花を至近距離で見ようとしたら、一つには中腰になって両膝に手を当てることが考えられます。その姿勢でも、そこからしゃがんだ場合も、顔は膝よりも向こう側に出ます。相撲取りの蹲踞(そんきょ)の姿勢であれば、顔は前に出ず、上体は真っ直ぐです。また、仕事着でいるか尻端折(はしょ)りしているか袴(はかま)を穿いているか洋服を着ているため立った姿勢から直接しゃがんでかがむことが出来る場合は、顔の真下にあるのは開いた膝の間にある空間です。
一方、姿勢の如何に拘わらず「戸外で手放しで落涙する女」は、明治時代には稀だったはずです。
>歌詞の拍数と、旋律の拍数とが一致しておらず、
しかも不自然に聞こえてくることはすぐに判りました。
先入見無しに初めて聞く人は、皆さん同じことをおっしゃいます。F爺が初めて聞いた時の印象もそうでした。「何語だろう !?」と思ったものです。
>歌詞の、
~垣根の千草 今日は汝(なれ)を眺むる終りの日なり 思えば涙 膝を浸す
この部分ですが、私は一読して、
垣根の近くでしゃがんで、そこに自生した小花を眺めている
そんな状況が浮かびました。顔の真下に膝が位置しますので、こぼれた涙が、膝に落ちるのも、不自然ではないと思います。
えっ、そうでしょうか。
明治時代の男が庭に生えている草本の花を至近距離で見ようとしたら、一つには中腰になって両膝に手を当てることが考えられます。その姿勢でも、そこからしゃがんだ場合も、顔は膝よりも向こう側に出ます。相撲取りの蹲踞(そんきょ)の姿勢であれば、顔は前に出ず、上体は真っ直ぐです。また、仕事着でいるか尻端折(はしょ)りしているか袴(はかま)を穿いているか洋服を着ているため立った姿勢から直接しゃがんでかがむことが出来る場合は、顔の真下にあるのは開いた膝の間にある空間です。
一方、姿勢の如何に拘わらず「戸外で手放しで落涙する女」は、明治時代には稀だったはずです。
しゃがむ動作
F爺様
おっしゃる通り、躑踞の姿勢では、顔の下に膝がくることはありません。
膝に手を当てた、中腰の状態からしゃがめば、大抵の人の場合、膝と膝との間に隙間ができますが、その幅の広さはそれぞれだと思います。
思い切り広げれば、躑踞の姿勢に近づきますし、膝を抱え込むぐらい狭くするひともいると思います。
私の場合、拳1個と少しぐらいの幅の隙間になります。
また、涙は、眼の外側から頬を伝っていきますが、眼の外側と外側との距離は、大体、拳1個ぶんぐらいです。
実際に踵を浮かせてしゃがみ、地上の対象物をじっと見ようとして、少し前のめりになると、涙は、顎に達する前、頬骨の突出したところから落ちていきますが、そこは、ほぼ膝の真上に位置します。
ですので、涙が膝に落ちる、ことはありうると思いました。
しかし、明治時代に、「戸外で手放しで落涙する」行為は、稀だった、ということは同意します。
おっしゃる通り、躑踞の姿勢では、顔の下に膝がくることはありません。
膝に手を当てた、中腰の状態からしゃがめば、大抵の人の場合、膝と膝との間に隙間ができますが、その幅の広さはそれぞれだと思います。
思い切り広げれば、躑踞の姿勢に近づきますし、膝を抱え込むぐらい狭くするひともいると思います。
私の場合、拳1個と少しぐらいの幅の隙間になります。
また、涙は、眼の外側から頬を伝っていきますが、眼の外側と外側との距離は、大体、拳1個ぶんぐらいです。
実際に踵を浮かせてしゃがみ、地上の対象物をじっと見ようとして、少し前のめりになると、涙は、顎に達する前、頬骨の突出したところから落ちていきますが、そこは、ほぼ膝の真上に位置します。
ですので、涙が膝に落ちる、ことはありうると思いました。
しかし、明治時代に、「戸外で手放しで落涙する」行為は、稀だった、ということは同意します。
Re: しゃがむ動作
「106」さん
>膝に手を当てた、中腰の状態からしゃがめば、大抵の人の場合、膝と膝との間に隙間ができますが、その幅の広さはそれぞれだと思います。(・・・)私の場合、拳1個と少しぐらいの幅の隙間になります。
F爺の場合は、姿勢が安定するように、中腰になる前に足を開いて外股にします。その状態でしゃがむと、膝と膝の間の距離は、拳から肱(ひじ)までがすっぽり入るくらいです。「隙間」ではありません。
人によってどのくらいの違いがあるものなのでしょうね。今度日本に行ったら、しゃがむ人を観察してみます。街中では難しいと思いますが。
>明治時代に、「戸外で手放しで落涙する」行為は、稀だった、ということは同意します。
前便では「戸外で手放しで落涙する女」は稀・・・と書きましたが、男はさらに稀だったはずですね。
>膝に手を当てた、中腰の状態からしゃがめば、大抵の人の場合、膝と膝との間に隙間ができますが、その幅の広さはそれぞれだと思います。(・・・)私の場合、拳1個と少しぐらいの幅の隙間になります。
F爺の場合は、姿勢が安定するように、中腰になる前に足を開いて外股にします。その状態でしゃがむと、膝と膝の間の距離は、拳から肱(ひじ)までがすっぽり入るくらいです。「隙間」ではありません。
人によってどのくらいの違いがあるものなのでしょうね。今度日本に行ったら、しゃがむ人を観察してみます。街中では難しいと思いますが。
>明治時代に、「戸外で手放しで落涙する」行為は、稀だった、ということは同意します。
前便では「戸外で手放しで落涙する女」は稀・・・と書きましたが、男はさらに稀だったはずですね。