コメント
No title
小島先生
このところ多忙に紛れて記事を拝読するのが遅くなりました。(その結果、コメントするのも遅くなりました。)
さて、日本語に「代名詞」も「複数形(複数標識)」も存在しないことはよくわかりました。
また、「寄生語彙の「彼」と「彼女」に集合標識をつけた「彼ら」「彼女ら」は、ヨーロッパ諸語の「三人称複数代名詞」の逐語訳用語として成立したもの」であるというご指摘もその通りであろうと思います。
そのうえで、これらの言葉に対する小島先生と私の考え方の違いを述べると、次のようになるかと思います。
「彼」「彼女」「彼ら」「彼女ら」は小島先生の仰るように「明治以降に成立した逐語訳」であることは確かでしょうが、明治維新から150年近く経つ今日の日本語文章体においては、「今しがた言及した人物」を指す言葉として、一定の利便性を獲得しており、これらの言葉を全面的に排除することはかえって不便をきたすのではないかと私は思います。
しかし、このように述べたからといって、「彼ら」などを排除する小島先生のお考えが間違いだと主張しているわけではありません。小島先生にとっては、これらの言葉を使わずとも(否、使わないからこそ、でしょうが)日本語らしい日本語がお書きになれるでしょうが、日常的に(仕事の一部などとして)日本語で文章を書いている人がこれらの言葉を一切使わずに文章を書くことは、かえって困難になるように思います。
つまり、私の立場は、言語学的な正しさよりも利便性を優先しているということで、現在の一般的な使用法に対して妥協的であり、小島先生は非妥協的に言語学的な正しさを追求しておられるのではないか、と思います。
ただし、「彼/彼女(ら)」といった表現については、私もPolitical correctnessの猿真似で不自然だと感じるので、使用しませんし、不必要なカタカナ語の多用についても批判的です。ですから、私が以前のコメントで引用した文に対する小島先生の感想もわかるのですが、「擬似日本語」というご批評は、私には少し厳しすぎるように感じました。
このところ多忙に紛れて記事を拝読するのが遅くなりました。(その結果、コメントするのも遅くなりました。)
さて、日本語に「代名詞」も「複数形(複数標識)」も存在しないことはよくわかりました。
また、「寄生語彙の「彼」と「彼女」に集合標識をつけた「彼ら」「彼女ら」は、ヨーロッパ諸語の「三人称複数代名詞」の逐語訳用語として成立したもの」であるというご指摘もその通りであろうと思います。
そのうえで、これらの言葉に対する小島先生と私の考え方の違いを述べると、次のようになるかと思います。
「彼」「彼女」「彼ら」「彼女ら」は小島先生の仰るように「明治以降に成立した逐語訳」であることは確かでしょうが、明治維新から150年近く経つ今日の日本語文章体においては、「今しがた言及した人物」を指す言葉として、一定の利便性を獲得しており、これらの言葉を全面的に排除することはかえって不便をきたすのではないかと私は思います。
しかし、このように述べたからといって、「彼ら」などを排除する小島先生のお考えが間違いだと主張しているわけではありません。小島先生にとっては、これらの言葉を使わずとも(否、使わないからこそ、でしょうが)日本語らしい日本語がお書きになれるでしょうが、日常的に(仕事の一部などとして)日本語で文章を書いている人がこれらの言葉を一切使わずに文章を書くことは、かえって困難になるように思います。
つまり、私の立場は、言語学的な正しさよりも利便性を優先しているということで、現在の一般的な使用法に対して妥協的であり、小島先生は非妥協的に言語学的な正しさを追求しておられるのではないか、と思います。
ただし、「彼/彼女(ら)」といった表現については、私もPolitical correctnessの猿真似で不自然だと感じるので、使用しませんし、不必要なカタカナ語の多用についても批判的です。ですから、私が以前のコメントで引用した文に対する小島先生の感想もわかるのですが、「擬似日本語」というご批評は、私には少し厳しすぎるように感じました。
Re: No title
あそびたりあんさん
貴重なコメント、ありがとうございます。「小島先生は非妥協的に言語学的な正しさを追求しておられるのではないか、と思います」という件(くだり)には誤解があります。返信は、記事として掲載することにしました。今日中に書き上げますが、日本時間では明日(あす)3月2日付けになると思います。
貴重なコメント、ありがとうございます。「小島先生は非妥協的に言語学的な正しさを追求しておられるのではないか、と思います」という件(くだり)には誤解があります。返信は、記事として掲載することにしました。今日中に書き上げますが、日本時間では明日(あす)3月2日付けになると思います。
集合名詞と複数形の違い
日本語の集合標識は西洋諸語のような複数形ではない、ということは『再構築した日本語文法』にも詳述してありますが、改めて非常に説得力のあるものだと思いました。
「山々」「花々」などの不可算集合名詞についてなのですが、確かに、語形上、日本語の動詞は西洋諸語と違って「動作主や存在主が一つだけのときと多数であるときとで別形にな」らず、日本語の連体修飾語は「被修飾語が一つだけのときと多数であるときとで別形にな」りません。
けれども、日本語の集合名詞は「多数だが、全部でいくつ…あるかは問題にならないし、いちいち数えられない」時に用いる、という語の意味上の特徴と、西洋諸語の複数形との違いが僕にはわかりません。これは、西洋諸語の複数形と共通しているのではないでしょうか(複数形には様々な用法があるのでしょうけれど、「一つではない」という基本的な原則がある、と理解しています)。
西洋諸語の文法を一つも体得していないので、素っ頓狂な質問をしているかもしれず、上の理解に自信はないのですが……集合名詞と西洋諸語における複数形の違いについて、さらに詳しい説明をしていただけませんでしょうか。
ちなみに、『再構築した日本語文法』にはこう書いてあります。
「「花々」「隅々」「津々浦々」などのように同語反復によって成立した集合名詞は「同じ種類のものが不可算多数」あることを示します」
『再構築した日本語文法』64頁
「山々」「花々」などの不可算集合名詞についてなのですが、確かに、語形上、日本語の動詞は西洋諸語と違って「動作主や存在主が一つだけのときと多数であるときとで別形にな」らず、日本語の連体修飾語は「被修飾語が一つだけのときと多数であるときとで別形にな」りません。
けれども、日本語の集合名詞は「多数だが、全部でいくつ…あるかは問題にならないし、いちいち数えられない」時に用いる、という語の意味上の特徴と、西洋諸語の複数形との違いが僕にはわかりません。これは、西洋諸語の複数形と共通しているのではないでしょうか(複数形には様々な用法があるのでしょうけれど、「一つではない」という基本的な原則がある、と理解しています)。
西洋諸語の文法を一つも体得していないので、素っ頓狂な質問をしているかもしれず、上の理解に自信はないのですが……集合名詞と西洋諸語における複数形の違いについて、さらに詳しい説明をしていただけませんでしょうか。
ちなみに、『再構築した日本語文法』にはこう書いてあります。
「「花々」「隅々」「津々浦々」などのように同語反復によって成立した集合名詞は「同じ種類のものが不可算多数」あることを示します」
『再構築した日本語文法』64頁
Re: 集合名詞と複数形の違い
R君
日本語のように「集合名詞があって複数形の無い」言語を母言語にしている者にとって異言語の「複数形」を理解するのは、簡単なことではありませんね。他にも同じ疑問を抱えている人が多いかもしれませんから、記事にしてお答えします。フランス時間で今日中に執筆できると思いますが、日本時間では明日(2014年3月11日)の日付になります。
日本語のように「集合名詞があって複数形の無い」言語を母言語にしている者にとって異言語の「複数形」を理解するのは、簡単なことではありませんね。他にも同じ疑問を抱えている人が多いかもしれませんから、記事にしてお答えします。フランス時間で今日中に執筆できると思いますが、日本時間では明日(2014年3月11日)の日付になります。
久々に再読
久しぶりに、剛一さんの書かはった、この「複数論」の記事を再読しました。
日本語について疑問に思った時、気になることが出てきた時、わからないこと、忘れてしまっていそうなことに思い当たった時などは、まず『再構築した日本語文法』と剛一さんのブログに何か手がかりがないか、と探すことにしているのです。検索にかけられる分、ブログの方が参照頻度が高いかも知れません。
それで、簡単ではありますが、一言コメントをしておこうと思いました。最後の方の段落の「読者の皆様は、[剛一さんの書き換えはった案]のほうが日本語として自然で論旨がはっきりしているとお思いになりませんか」という質問に対してです。
これは、誰の目にも明らかだと思います。剛一さんの書き換えた「アイヌ人や沖縄の人々は、日本の少数民族である。独自の言語と文化と歴史があることを学校教育できちんと教えることによって日本人一般の知識と関心を幼少の頃から高めること」方が遥かにわかりやすいですね。もとの文章とは雲泥の差。だいたい、「ナショナル・マイノリティ」とカタカナにする意味がわかりませんし。
先日、知人から「実は日本語教師を目指しているんです」と打ち明けられました。僕は勿論、『再構築した日本語文法』を薦めておきました。日本語教師を目指すのであれば、必読の書ですから。
日本語について疑問に思った時、気になることが出てきた時、わからないこと、忘れてしまっていそうなことに思い当たった時などは、まず『再構築した日本語文法』と剛一さんのブログに何か手がかりがないか、と探すことにしているのです。検索にかけられる分、ブログの方が参照頻度が高いかも知れません。
それで、簡単ではありますが、一言コメントをしておこうと思いました。最後の方の段落の「読者の皆様は、[剛一さんの書き換えはった案]のほうが日本語として自然で論旨がはっきりしているとお思いになりませんか」という質問に対してです。
これは、誰の目にも明らかだと思います。剛一さんの書き換えた「アイヌ人や沖縄の人々は、日本の少数民族である。独自の言語と文化と歴史があることを学校教育できちんと教えることによって日本人一般の知識と関心を幼少の頃から高めること」方が遥かにわかりやすいですね。もとの文章とは雲泥の差。だいたい、「ナショナル・マイノリティ」とカタカナにする意味がわかりませんし。
先日、知人から「実は日本語教師を目指しているんです」と打ち明けられました。僕は勿論、『再構築した日本語文法』を薦めておきました。日本語教師を目指すのであれば、必読の書ですから。
Re: 久々に再読
R君
>「アイヌ人や沖縄の人々は、日本の少数民族である。独自の言語と文化と歴史があることを学校教育できちんと教えることによって日本人一般の知識と関心を幼少の頃から高めること」[の]方が遥かにわかりやすいですね。もとの文章とは雲泥の差。だいたい、「ナショナル・マイノリティ」とカタカナにする意味がわかりませんし。
賛成票、ありがとう。どなたからも感想が届かないのを少々不思議に思っていました。
>先日、知人から「実は日本語教師を目指しているんです」と打ち明けられました。僕は勿論、『再構築した日本語文法』を薦めておきました。日本語教師を目指すのであれば、必読の書ですから。
「日本語教師になりたい」とおっしゃる人と遭遇することがあり、また押しかけて来られることがあります。
「こんな酷(ひど)い日本語を喋る人には日本語教師になってもらいたくないなあ」と思うことが、ままあります。
R君の知人の方が『再構築した日本語文法』が理解できる人だと良いのですが。
>「アイヌ人や沖縄の人々は、日本の少数民族である。独自の言語と文化と歴史があることを学校教育できちんと教えることによって日本人一般の知識と関心を幼少の頃から高めること」[の]方が遥かにわかりやすいですね。もとの文章とは雲泥の差。だいたい、「ナショナル・マイノリティ」とカタカナにする意味がわかりませんし。
賛成票、ありがとう。どなたからも感想が届かないのを少々不思議に思っていました。
>先日、知人から「実は日本語教師を目指しているんです」と打ち明けられました。僕は勿論、『再構築した日本語文法』を薦めておきました。日本語教師を目指すのであれば、必読の書ですから。
「日本語教師になりたい」とおっしゃる人と遭遇することがあり、また押しかけて来られることがあります。
「こんな酷(ひど)い日本語を喋る人には日本語教師になってもらいたくないなあ」と思うことが、ままあります。
R君の知人の方が『再構築した日本語文法』が理解できる人だと良いのですが。
No title
>読者の皆様は、この案のほうが日本語として自然で論旨がはっきりしているとお思いになりませんか。
賛同します。元の文とは、既に話題となっているカタカナ語や寄生語彙だけでなく、構文上も大きな違いがありますね。
元の文は、誰が「関心を高める」のか、誰が誰に「きちんと教える」のかが不明瞭で、その前後関係も不自然です。
小島さんの書き換え案がなければ、「きちんと教え」る能力を養うために、教える側の「関心を高める」必要があると読み取っていたかもしれません。
と、言うのは簡単ですが、自分が書き換え案のような明晰な日本語が書けるかというと、それはまた別の話です・・・。
賛同します。元の文とは、既に話題となっているカタカナ語や寄生語彙だけでなく、構文上も大きな違いがありますね。
元の文は、誰が「関心を高める」のか、誰が誰に「きちんと教える」のかが不明瞭で、その前後関係も不自然です。
小島さんの書き換え案がなければ、「きちんと教え」る能力を養うために、教える側の「関心を高める」必要があると読み取っていたかもしれません。
と、言うのは簡単ですが、自分が書き換え案のような明晰な日本語が書けるかというと、それはまた別の話です・・・。
Re: No title
星三郎さん
>小島さんの書き換え案がなければ、「きちんと教え」る能力を養うために、教える側の「関心を高める」必要があると読み取っていたかもしれません。
ええっと・・・あ、確かにそういう読み方も可能ですね(笑)。近年の日本には、誰に何を伝えようとしているのか理解不能の文字列が氾濫しています。困ったことですね。
>小島さんの書き換え案がなければ、「きちんと教え」る能力を養うために、教える側の「関心を高める」必要があると読み取っていたかもしれません。
ええっと・・・あ、確かにそういう読み方も可能ですね(笑)。近年の日本には、誰に何を伝えようとしているのか理解不能の文字列が氾濫しています。困ったことですね。