能動態・中動態・受動態(4)「小林秀雄賞」
- 2018/02/14
- 21:19
ある読者の方が2017年度の「小林秀雄賞」のことを知らせてくださいました。なんでも、今回その賞を取ったのは、このブログで俎板(まないた)に載せたことのある『中動態の世界――意志と責任の考古学』(國分功一郎、医学書院、2017年3月)という本なのだそうです。
〈能動態・中動態・受動態〉
〈能動態・中動態・受動態(続)〉
〈能動態・中動態・受動態(3)〉
の三篇で記述していますから、未読の方は目を通してください。
その読者の方のメールには、「新潮社のWEBサイト」なるもののリンクが貼ってありました。「第十六回小林秀雄賞」という記事の終わりの方に5人の選者の言葉があります。加藤典洋、養老孟司、関川夏央、堀江敏幸、橋本治の五氏の名前が出ています。それぞれの一部だけを引用します。
選者・加藤典洋氏の言葉
*****
(・・・)
この本は何を言おうとしているのか。よくわからない。その理由は、入り口が二つあるからである。一つは冒頭語られるアルコール・薬物等依存症の人びとの話。
(・・・)
しかし、人は一つの入り口からしか入れない。本文が進むと後者の哲学、言語学の関心が前景化してくる。文献の考証が続くと、なんだか依存症の世界という入り口が、都合よく「使われている」だけの〝後付け〟だったかという感じがしてくる。そのことがこの本の印象を弱くしている。
(・・・)
しかし、自分でも不思議なことに、こうしたことを述べながら、同時に、私は、これらの異論が自分にとってはむしろこの本を推す理由になっているのを感じた。異論の中身よりも異論をそそのかす力のほうに説得されたのである。よって、選考の場にいる多くの人があっけにとられ、呆れるのをよそに、これらの異論を述べ、しかる後、――中動態的に?――この本を推した。
*****
・・・とすると、「小林秀雄賞」というのは、
〈何を言おうとしているのか。よくわからない〉
ことを書けば取れるのですね。
《これが卑しくも選者を頼まれた人の公表した言葉か!》
と驚きました。
F爺には、【加藤典洋氏には、中動態の何たるかが全然分かっていない】ことだけが判りました。
なお、「加藤典洋」という名前は、浦島F爺にとっては初耳のものです。新潮社にこの賞の選者を頼まれる以前に何をしていた人なのか、全く存じません。
選者・養老孟司氏の言葉
*****
歳をとると面倒なことはしたくない。でもこの本のおかげで久しぶりに難儀をした。
まったくわからないなら、本を放り出せば済む。でも一部なんとなくわかる。だから逆に始末が悪い。何回か放り出したけれど、仕事なんだから仕方がないと思って、気を取り直して読み直す。
(・・・)
著者の意に反するかもしれないが、中動態そのものはさして重要ではない。そもそも中動態が消えてしまう理由もよくわからない。犯人はキリスト教だろうと察するが、はっきりそうとは書いてない。
(・・・)
*****
《これが「選者の言葉」か!》
と、またまた驚きました。
「でも一部なんとなくわかる」
というのは、明晰な日本語に翻訳すると
「何が何だかさっぱり解らない」
ということです。
読もうとしたけれども意味の解らない本の評を頼まれたら、普通の人なら
「何のことか解らないから私には評は出来ません」
と辞退するものでしょう。
きっと「小林秀雄賞」の選者には、普通ではない人が多いのでしょうね。
言語の変遷に何らかの「理由」があるかどうかは、誰にも分かりません。言語史研究は、変遷の後を辿りますが、「理由」らしきものは探しても見つからないし、仮説を立てても説得力は無いのが普通です。あ、失礼。この人たちに「普通」の思考方法を望むのは、無い物ねだりだったのですよね。
なお、「養老孟司」という名前は、F爺にとっては初耳のものです。新潮社にこの賞の選者を頼まれる以前に何をしていた人なのか、全く存じません。
選者・関川夏央氏の言葉
*****
(・・・)
欧州語には、消えた中動態の痕跡が、たとえばフランス語における「再帰動詞」のように残っている。サンスクリット語では、中動態は「反射態」という呼称で書き言葉の現役である。この本を読みたどるうち、そんないくつかの思い当たりが、瞬時の光芒のように道を照らした。
しかしよくわからないところがあったのは、私の「知」の水準の「責任」だが、この屈曲した華やかな道中の景色に気を取られ過ぎて、ときに著者の旅の出発点と目的地を見失うことがあったためでもある。さらに日本語で中動態に相当するもの、あるいは「意志」と「責任」を問うことを避ける機能について、より詳しく語ってもらえれば、私のようなものにも深く得心がいったはずだ。
(・・・)
巨細に読み取れてすっきり腑に落ちたとは言い切れぬものの、この本が「何か重要なことを語っている」という印象はついに拭われなかった。國分氏の冒険の旅の記録が小林秀雄賞受賞作の列に加わっていただいたことを嬉しく思う。
*****
三人目も平気で
「よくわからない」と、
つまり
〈全然分からない〉
と言っています。
もう
《これが「選者の言葉」か!》
とは驚きません。
〈「何か重要なことを語っている」という印象〉
が拭えないだけで推薦してもらえるのなら、「小林秀雄賞」には何の価値も無いということです。
〈フランス語の再帰動詞が「態」の分類上、間違い無く「能動態」であること〉
をこの選者は、知っているのでしょうか。
なお、「関川夏央」という名前は、F爺にとっては初耳のものです。新潮社にこの賞の・・・以下同文。
選者・堀江敏幸氏の言葉
*****
(・・・)
自由と強制の関係のあいだにいる自分自身の現在地をどう確かめていくのか。「われわれが集団で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない」との指摘は、現在この国が置かれている不自然な「態」の様式を崩すための、有効な指針となるだろう。
書き手だけでなく、読み手もまた変状する。変状を実践し、またそれを他者に促す本書は、抽象的な思考ではなく、徹底した実践の書なのだ。つねに臨戦態勢にある寛容、もしくは中庸の狂気といった《あいだ》の存在についてぼんやり考えつづけてきた私にとっても、手が届きそうで届かない自由を見つめ直す貴重な機会になった。
*****
「「われわれが集団で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない」との指摘」
とあります。
そもそも「中動態の世界」なんて存在しないのです。それは、「過去分詞の世界」だの「女性複数形の世界」だのというものが存在しないのと同じことです。特定の言語の構造全体は比喩的な意味で「世界」を成し得ますが、構造の一部だけに注目してそれを「世界」と呼ぶのは間違いです。存在しない物を前提とすることは、当然、不可能です。無意味な文字列です。
そんな「指摘」は、何の役にも立ちません。
なお、「堀江敏幸」という名前は、F爺にとっては初耳の・・・以下同文。
選者・橋本治氏の言葉
*****
國分功一郎さんの『中動態の世界――意志と責任の考古学』は、私にはかなり難しい本ではありました。なぜかと言えば、「受動態」「能動態」という日本語はありながら、日本語の中に構文としての受動態、能動態というものはないからです。
(・・・)
日本語の「態」や「時制」は、動詞に助動詞がくっつくことから生まれるもので、
(・・・)
その点で言えば、どうとでもなりうる中動態が日本語のそもそものあり方ではないかと、勝手に思います。
(・・・)
たとえ孤独な一人旅であっても「同行二人」を前提とする、巡礼の長い道程を感じました。
*****
この方の言葉の
「「受動態」「能動態」という日本語はありながら、日本語の中に構文としての受動態、能動態というものはない」
という箇所で目を瞠(みは)りました。
《もしかしたら、この人、術語の使い方はおかしいけど、健全な日本語感覚があるんじゃないか・・・》
と、しばし、思いました。
《他の「選者」とは違うのかも・・・》
と。
しかし、
「日本語の「態」や「時制」は、動詞に助動詞がくっつくことから生まれるもので」
とあるのを読んで幻想は微塵に打ち砕かれました。
日本語には、「態」も「時制」も無いのです。
日本語で「時」を表わすのは、「昨日」「明日」「大昔」「来週」のような「副詞でもあり名詞でもある」語や「1885年に」のように「現在から見れば過去」であることを示すような語句です。動詞の形態ではありません。
「書いてある」「塗ってある」のような形態がヨーロッパ諸語などの「受動態」に近い状況を表わしますが、「近い」だけであって、同じものではありません。
なお、この選者の言葉の末尾にある「同行二人」への言及は、無意味です。 (*)
(*)「同行二人」は、四国の遍路道を何度も歩いたけれども「目には見えないお大師様と同行」という考え方を排除する歩き遍路の耳には、空虚に響く言葉です。
「長い孤独な時間」は、個人が行なう全ての研究について言えることです。特筆する理由がありません。
なお、「橋本治」という名前は、F爺にとっては初耳の・・・以下同文。
纏め
選者が五人もいて、揃って自分が理解できないものに授賞を推奨するなんて・・・F爺の感覚ではあり得ないことです。
読者の皆様の異論・反論をお待ちしております。ただ、初投稿の方は、予(あらかじ)め、当ブログ独自の「コメント投稿規定」に目をお通しください。
〈能動態・中動態・受動態〉
〈能動態・中動態・受動態(続)〉
〈能動態・中動態・受動態(3)〉
の三篇で記述していますから、未読の方は目を通してください。
その読者の方のメールには、「新潮社のWEBサイト」なるもののリンクが貼ってありました。「第十六回小林秀雄賞」という記事の終わりの方に5人の選者の言葉があります。加藤典洋、養老孟司、関川夏央、堀江敏幸、橋本治の五氏の名前が出ています。それぞれの一部だけを引用します。
選者・加藤典洋氏の言葉
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(・・・)
この本は何を言おうとしているのか。よくわからない。その理由は、入り口が二つあるからである。一つは冒頭語られるアルコール・薬物等依存症の人びとの話。
(・・・)
しかし、人は一つの入り口からしか入れない。本文が進むと後者の哲学、言語学の関心が前景化してくる。文献の考証が続くと、なんだか依存症の世界という入り口が、都合よく「使われている」だけの〝後付け〟だったかという感じがしてくる。そのことがこの本の印象を弱くしている。
(・・・)
しかし、自分でも不思議なことに、こうしたことを述べながら、同時に、私は、これらの異論が自分にとってはむしろこの本を推す理由になっているのを感じた。異論の中身よりも異論をそそのかす力のほうに説得されたのである。よって、選考の場にいる多くの人があっけにとられ、呆れるのをよそに、これらの異論を述べ、しかる後、――中動態的に?――この本を推した。
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・・・とすると、「小林秀雄賞」というのは、
〈何を言おうとしているのか。よくわからない〉
ことを書けば取れるのですね。
《これが卑しくも選者を頼まれた人の公表した言葉か!》
と驚きました。
F爺には、【加藤典洋氏には、中動態の何たるかが全然分かっていない】ことだけが判りました。
なお、「加藤典洋」という名前は、浦島F爺にとっては初耳のものです。新潮社にこの賞の選者を頼まれる以前に何をしていた人なのか、全く存じません。
選者・養老孟司氏の言葉
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歳をとると面倒なことはしたくない。でもこの本のおかげで久しぶりに難儀をした。
まったくわからないなら、本を放り出せば済む。でも一部なんとなくわかる。だから逆に始末が悪い。何回か放り出したけれど、仕事なんだから仕方がないと思って、気を取り直して読み直す。
(・・・)
著者の意に反するかもしれないが、中動態そのものはさして重要ではない。そもそも中動態が消えてしまう理由もよくわからない。犯人はキリスト教だろうと察するが、はっきりそうとは書いてない。
(・・・)
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《これが「選者の言葉」か!》
と、またまた驚きました。
「でも一部なんとなくわかる」
というのは、明晰な日本語に翻訳すると
「何が何だかさっぱり解らない」
ということです。
読もうとしたけれども意味の解らない本の評を頼まれたら、普通の人なら
「何のことか解らないから私には評は出来ません」
と辞退するものでしょう。
きっと「小林秀雄賞」の選者には、普通ではない人が多いのでしょうね。
言語の変遷に何らかの「理由」があるかどうかは、誰にも分かりません。言語史研究は、変遷の後を辿りますが、「理由」らしきものは探しても見つからないし、仮説を立てても説得力は無いのが普通です。あ、失礼。この人たちに「普通」の思考方法を望むのは、無い物ねだりだったのですよね。
なお、「養老孟司」という名前は、F爺にとっては初耳のものです。新潮社にこの賞の選者を頼まれる以前に何をしていた人なのか、全く存じません。
選者・関川夏央氏の言葉
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(・・・)
欧州語には、消えた中動態の痕跡が、たとえばフランス語における「再帰動詞」のように残っている。サンスクリット語では、中動態は「反射態」という呼称で書き言葉の現役である。この本を読みたどるうち、そんないくつかの思い当たりが、瞬時の光芒のように道を照らした。
しかしよくわからないところがあったのは、私の「知」の水準の「責任」だが、この屈曲した華やかな道中の景色に気を取られ過ぎて、ときに著者の旅の出発点と目的地を見失うことがあったためでもある。さらに日本語で中動態に相当するもの、あるいは「意志」と「責任」を問うことを避ける機能について、より詳しく語ってもらえれば、私のようなものにも深く得心がいったはずだ。
(・・・)
巨細に読み取れてすっきり腑に落ちたとは言い切れぬものの、この本が「何か重要なことを語っている」という印象はついに拭われなかった。國分氏の冒険の旅の記録が小林秀雄賞受賞作の列に加わっていただいたことを嬉しく思う。
*****
三人目も平気で
「よくわからない」と、
つまり
〈全然分からない〉
と言っています。
もう
《これが「選者の言葉」か!》
とは驚きません。
〈「何か重要なことを語っている」という印象〉
が拭えないだけで推薦してもらえるのなら、「小林秀雄賞」には何の価値も無いということです。
〈フランス語の再帰動詞が「態」の分類上、間違い無く「能動態」であること〉
をこの選者は、知っているのでしょうか。
なお、「関川夏央」という名前は、F爺にとっては初耳のものです。新潮社にこの賞の・・・以下同文。
選者・堀江敏幸氏の言葉
*****
(・・・)
自由と強制の関係のあいだにいる自分自身の現在地をどう確かめていくのか。「われわれが集団で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない」との指摘は、現在この国が置かれている不自然な「態」の様式を崩すための、有効な指針となるだろう。
書き手だけでなく、読み手もまた変状する。変状を実践し、またそれを他者に促す本書は、抽象的な思考ではなく、徹底した実践の書なのだ。つねに臨戦態勢にある寛容、もしくは中庸の狂気といった《あいだ》の存在についてぼんやり考えつづけてきた私にとっても、手が届きそうで届かない自由を見つめ直す貴重な機会になった。
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「「われわれが集団で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない」との指摘」
とあります。
そもそも「中動態の世界」なんて存在しないのです。それは、「過去分詞の世界」だの「女性複数形の世界」だのというものが存在しないのと同じことです。特定の言語の構造全体は比喩的な意味で「世界」を成し得ますが、構造の一部だけに注目してそれを「世界」と呼ぶのは間違いです。存在しない物を前提とすることは、当然、不可能です。無意味な文字列です。
そんな「指摘」は、何の役にも立ちません。
なお、「堀江敏幸」という名前は、F爺にとっては初耳の・・・以下同文。
選者・橋本治氏の言葉
*****
國分功一郎さんの『中動態の世界――意志と責任の考古学』は、私にはかなり難しい本ではありました。なぜかと言えば、「受動態」「能動態」という日本語はありながら、日本語の中に構文としての受動態、能動態というものはないからです。
(・・・)
日本語の「態」や「時制」は、動詞に助動詞がくっつくことから生まれるもので、
(・・・)
その点で言えば、どうとでもなりうる中動態が日本語のそもそものあり方ではないかと、勝手に思います。
(・・・)
たとえ孤独な一人旅であっても「同行二人」を前提とする、巡礼の長い道程を感じました。
*****
この方の言葉の
「「受動態」「能動態」という日本語はありながら、日本語の中に構文としての受動態、能動態というものはない」
という箇所で目を瞠(みは)りました。
《もしかしたら、この人、術語の使い方はおかしいけど、健全な日本語感覚があるんじゃないか・・・》
と、しばし、思いました。
《他の「選者」とは違うのかも・・・》
と。
しかし、
「日本語の「態」や「時制」は、動詞に助動詞がくっつくことから生まれるもので」
とあるのを読んで幻想は微塵に打ち砕かれました。
日本語には、「態」も「時制」も無いのです。
日本語で「時」を表わすのは、「昨日」「明日」「大昔」「来週」のような「副詞でもあり名詞でもある」語や「1885年に」のように「現在から見れば過去」であることを示すような語句です。動詞の形態ではありません。
「書いてある」「塗ってある」のような形態がヨーロッパ諸語などの「受動態」に近い状況を表わしますが、「近い」だけであって、同じものではありません。
なお、この選者の言葉の末尾にある「同行二人」への言及は、無意味です。 (*)
(*)「同行二人」は、四国の遍路道を何度も歩いたけれども「目には見えないお大師様と同行」という考え方を排除する歩き遍路の耳には、空虚に響く言葉です。
「長い孤独な時間」は、個人が行なう全ての研究について言えることです。特筆する理由がありません。
なお、「橋本治」という名前は、F爺にとっては初耳の・・・以下同文。
纏め
選者が五人もいて、揃って自分が理解できないものに授賞を推奨するなんて・・・F爺の感覚ではあり得ないことです。
読者の皆様の異論・反論をお待ちしております。ただ、初投稿の方は、予(あらかじ)め、当ブログ独自の「コメント投稿規定」に目をお通しください。