月刊『□□□/よろず』という摩訶不思議な表題の雑誌があるのだそうです。後半の「よろず」は、「いろいろたくさんのこと」という意味なのかもしれませんが、前半の横文字の部分は、どんな意味のつもりなのか見当も付きません。何かの間違いの可能性もありますから、「□□□」と伏字にしておきます。
その雑誌の2018年1月号
(*)に「黛まどか」の対談記事が載っていると、ある読者の方が知らせてくださいました。
(*) その1月号が「発刊して以来、第4号」のようですから、2017年末にお目見えした新しい雑誌のようです。対談の相手は「玄秀盛」という、これまた日本のことに疎いF爺などの聞いたことも無い名前の人です。
意味を成さない文字列記事の冒頭に手書きの原稿の写真らしいものがあって
「
同行自分」
(*)という信じられない文字列が書いてありました。
何の意味も成しません。日本語ではありません。病的な自己中心主義の「悪臭」だけはふんぷんですが。
(*) こんな文字列を印刷して発表してやる雑誌も雑誌です。出版倫理なんてどこにも無いのでしょう。因みに「一人で歩く」ことは、「独行」または「独歩」と言います。「黛まどか」も、その「対談」を掲載した雑誌も、「同行(どうぎょう)」や「同行(どうこう)」ということの意味が解っていないのです。四国遍路の「呪文」になっている「同行二人」をもじったつもりのようです。そして記事には
「
自分からは逃げられない」
という、何らかの人格障害を疑わせる言葉。
スペイン語のスの字も知らないくせに
スペイン語の似非語源説を滔々(とうとう)とぶって愧(は)じない輩(やから)の異常人格分析なんて、馬鹿馬鹿しくてやっていられません。
残りは、斜めにしか読まないと決めました。一番酷(ひど)い所だけ抜き書きします。
「嘘に決まっている」と確信されて当然の文字列「黛まどか」によると、四国の遍路道には外国人がたくさんいるのだそうで、
「
日本人には会わない日があっても外国人に会わない日はない」
と言っています。
そんな馬鹿な・・・ !!
「黛まどか」が四国の遍路道にいたのは、「
横浜スペイン協会」の証言から計算しても、2017年の 4~5月のはずです。一年中で歩き遍路の一番多い季節です。その時期に遍路道を
案内人付き、同伴者付き、いつでもどこへでも自家用車で馳せ参じてくれる「支援グループ」付きでぞろぞろ歩いていて
「
日本人には会わない日」
があるなんて、
誰が信じると思って口にしたのでしょうか。
外国人の多さを強調するための「誇張が行き過ぎた」という解釈は成り立ちますが、こんな表現をして憚らない愚か者の書き殴った文字列とは、馬鹿馬鹿しくて付き合っていられません。
たとい本当であっても信じてはもらえない表現道中遭遇したというオーストラリア人の話を持ち出すときに、「黛まどか」が
「
実際にあった話なんですけど」
という浅はかな前置きをしています。
本当のことしか言わない人は、こんな前置きをする必要はありません。
逆に言うと、こんな前置きをしたからには、
しょっちゅう作り話をしていると白状(*)しているのです。
(*) 当然の解釈です。こんなふうに思われたくなかったら、そんな愚かな前置きをする習慣を改めれば良いのです。参考「黛まどか」の書いた文章で、これまでにこのブログで取り上げた
「
事実無根のこと」の例:
[1]〈「特定の住職が四国霊場会に元々入会していない」ことを「
寺が四国霊場会から
脱退した」と
二重に誤った表現〉をして、未だに撤回も訂正もしていない。それどころか、東京新聞文化部長に〈間違っていない〉と鉄面皮の
虚偽の主張をさせている。グルになっているのだろう。
[2]〈
スペイン語の知ったかぶり〉も、指摘してから随分月日が経ったのに、未だに認識も撤回も訂正も謝罪もしていない。それどころか、東京新聞文化部長は、F爺に
脅迫による言論弾圧を試みている。
「
下手なフィクションである疑惑の極めて濃厚な描写」の例:
[1]〈
似非方言と骨壺〉
[2]〈
不自然な「車お接待」〉
[3]〈
不自然な「車で夕食お接待」〉
[4]〈
「悲惨な」宿〉
[5]〈
火葬場の係員〉
この他にも、
辻褄の合わないことや
自己矛盾が掃いて捨てるほどあります。
結論「黛まどか」の言うこと、為すこと、書くこと、どれもこれも信憑性が無く、何一つ一顧だに値しないことが判りました。前々から確信はしていましたが、これで「とどめ」です。
当初は、
《東京新聞に連載記事を書くくらいだから、F爺が評判を知らないだけで、余程(よほど)名の知れた文化人なのだろう》
と思い込んでいたのですが、とんでもない買い被りでした。
そして、日本のことに疎(うと)いF爺も今では、
「東京新聞文化部の記事は、現在の部長に報道倫理が欠けている
(*)から、部長が別の人に変わらない限り無価値だ」
と知っています。
(*) 東京新聞文化部長にこれを聞いて怒る資格はありません。
〈歴然たる誤報を読者に指摘してもらったら、早急に撤回し訂正するのが当然だ〉
と弁えることの方が先です。弁えた上で実行すれば、「遅かりしとは言え、報道倫理に目覚めた」ことになります。