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No title
小島様
質問[1]については[A]の自分が何をしているのか認識していない。つまり通し打ちという言葉の意味を理解していないのだと思います。
5月11日のツイートです。
(madoka.mayuzumi遍路通信36
ゴールデンウィークの後はお遍路さんの数が急に減りました。休日を使って「区切り打ち(期間を区切って廻る)」する方が多いのでしょう。特に女性の「通し遍路(一度に88ヵ所すべて廻る)」は少ないようです。宿や遍路道で会う方もここ数日は男性ばかり。皆さん険しい峠道もざっくざっく休まず歩くので、一緒に歩いているとこちらも自然とペースが上がります💨そんなわけで、昨日は25㎞と距離も短かったせいか、午後2時過ぎには宿の前に着いていました!今までで一番早い到着です❗お陰でゆっくりお風呂に入り、洗濯物をお日様の下に干し、部屋で地図と計算機を交互に見ながらこれからのルートをじっくり考えることができました。
写真は雨の峠道を行くお遍路さんです。通し遍路さんは荷物が大きいので一目でわかります。)
黛まどかは、車を使おうが、中断した区間を結願後に歩き直そうが、ただ一度に88ヶ所すべて回ることを通し打ちだと考えているように思えます。
あと、最後の方の
>写真は雨の峠道を行くお遍路さんです。通し遍路さんは荷物が大きいので一目でわかります。
通し打ちしたと言い張る黛まどかも大きい荷物を担いでいたのか気になります。
質問[2]は、もしかしたらサポートしていたというNPOが壮行会や打合せで、こんなことがあったとしても「歩き遍路の通し打ち]になりますからと嘘を教えていたのではと考えられないでしょうか。
質問[1]については[A]の自分が何をしているのか認識していない。つまり通し打ちという言葉の意味を理解していないのだと思います。
5月11日のツイートです。
(madoka.mayuzumi遍路通信36
ゴールデンウィークの後はお遍路さんの数が急に減りました。休日を使って「区切り打ち(期間を区切って廻る)」する方が多いのでしょう。特に女性の「通し遍路(一度に88ヵ所すべて廻る)」は少ないようです。宿や遍路道で会う方もここ数日は男性ばかり。皆さん険しい峠道もざっくざっく休まず歩くので、一緒に歩いているとこちらも自然とペースが上がります💨そんなわけで、昨日は25㎞と距離も短かったせいか、午後2時過ぎには宿の前に着いていました!今までで一番早い到着です❗お陰でゆっくりお風呂に入り、洗濯物をお日様の下に干し、部屋で地図と計算機を交互に見ながらこれからのルートをじっくり考えることができました。
写真は雨の峠道を行くお遍路さんです。通し遍路さんは荷物が大きいので一目でわかります。)
黛まどかは、車を使おうが、中断した区間を結願後に歩き直そうが、ただ一度に88ヶ所すべて回ることを通し打ちだと考えているように思えます。
あと、最後の方の
>写真は雨の峠道を行くお遍路さんです。通し遍路さんは荷物が大きいので一目でわかります。
通し打ちしたと言い張る黛まどかも大きい荷物を担いでいたのか気になります。
質問[2]は、もしかしたらサポートしていたというNPOが壮行会や打合せで、こんなことがあったとしても「歩き遍路の通し打ち]になりますからと嘘を教えていたのではと考えられないでしょうか。
1400キロではなく1400メートル?
質問[1]
[C]ではないかと思います。というより、今回の記事を読んで、そもそも黛まどかは遍路道を歩いていないのではと思うようになりました。遍路道を車で適当に回っただけかもしれません(途中で少しは歩いたかもしれませんが)。それで遍路道がどういうところか分かったつもりになり、後から地図や資料などを使ってさも歩き通したかのように話をでっち上げた気がします。実際に遍路道を歩いたのであれば、あり得ないはずの記述がいくつもありますので。総行程1400キロとのことですが、実際に歩いた距離は1400メートル程度ではないでしょうか。そして、編集担当者も嘘だと分かって黛まどかの捏造に加担したのだと思います。インチキだと分かっていても、少しでも売れる本を出すために著者の捏造に加担するのはあり得ない事ではないと思います。
質問[2]
思い付きません。数々の矛盾をさらけ出して、荒唐無稽でない説明仮説を出すのは不可能だと思います。
[C]ではないかと思います。というより、今回の記事を読んで、そもそも黛まどかは遍路道を歩いていないのではと思うようになりました。遍路道を車で適当に回っただけかもしれません(途中で少しは歩いたかもしれませんが)。それで遍路道がどういうところか分かったつもりになり、後から地図や資料などを使ってさも歩き通したかのように話をでっち上げた気がします。実際に遍路道を歩いたのであれば、あり得ないはずの記述がいくつもありますので。総行程1400キロとのことですが、実際に歩いた距離は1400メートル程度ではないでしょうか。そして、編集担当者も嘘だと分かって黛まどかの捏造に加担したのだと思います。インチキだと分かっていても、少しでも売れる本を出すために著者の捏造に加担するのはあり得ない事ではないと思います。
質問[2]
思い付きません。数々の矛盾をさらけ出して、荒唐無稽でない説明仮説を出すのは不可能だと思います。
Re: No title
「むじゃもと」さん
>黛まどかは、車を使おうが、中断した区間を結願後に歩き直そうが、ただ一度に88ヶ所すべて回ることを通し打ちだと考えているように思えます。
ははあ、なるほど。その可能性は大いにありますね。そんなふうに思い込んだとしたら、相当重症の○○ですが。
>最後の方の
>写真は雨の峠道を行くお遍路さんです。通し遍路さんは荷物が大きいので一目でわかります。
通し打ちしたと言い張る黛まどかも大きい荷物を担いでいたのか気になります。
「通し遍路さん」という言い方は、ごくごく稀にしか聞きませんが、多分「通し打ちを目差す歩きお遍路さん」のつもりでしょうね。成就するかどうかは結願してみなければ分からないことなのですから、不謹慎で烏滸(おこ)がましい表現だとF爺は思います。
荷物の大きさと「通し打ち」か「区切り打ち」かとは無関係です。もしも「黛まどか」がF爺の歩く姿を見たら〈あれは、お遍路さんじゃない。その辺の爺さんが散歩しているだけだ〉と思い込むのでしょうね。
>質問[2]は、もしかしたらサポートしていたというNPOが壮行会や打合せで、こんなことがあったとしても「歩き遍路の通し打ち]になりますからと嘘を教えていたのではと考えられないでしょうか。
仮にそうだったとしたら、そのNPOは「四国遍路文化の換骨奪胎・破壊を目的としている」ことになりますよ。考えたくないことです。
それよりは、〈「黛まどか」が何かを自分の都合の良いように超・拡大解釈した〉可能性の方が遥かに大きいと思います。
>黛まどかは、車を使おうが、中断した区間を結願後に歩き直そうが、ただ一度に88ヶ所すべて回ることを通し打ちだと考えているように思えます。
ははあ、なるほど。その可能性は大いにありますね。そんなふうに思い込んだとしたら、相当重症の○○ですが。
>最後の方の
>写真は雨の峠道を行くお遍路さんです。通し遍路さんは荷物が大きいので一目でわかります。
通し打ちしたと言い張る黛まどかも大きい荷物を担いでいたのか気になります。
「通し遍路さん」という言い方は、ごくごく稀にしか聞きませんが、多分「通し打ちを目差す歩きお遍路さん」のつもりでしょうね。成就するかどうかは結願してみなければ分からないことなのですから、不謹慎で烏滸(おこ)がましい表現だとF爺は思います。
荷物の大きさと「通し打ち」か「区切り打ち」かとは無関係です。もしも「黛まどか」がF爺の歩く姿を見たら〈あれは、お遍路さんじゃない。その辺の爺さんが散歩しているだけだ〉と思い込むのでしょうね。
>質問[2]は、もしかしたらサポートしていたというNPOが壮行会や打合せで、こんなことがあったとしても「歩き遍路の通し打ち]になりますからと嘘を教えていたのではと考えられないでしょうか。
仮にそうだったとしたら、そのNPOは「四国遍路文化の換骨奪胎・破壊を目的としている」ことになりますよ。考えたくないことです。
それよりは、〈「黛まどか」が何かを自分の都合の良いように超・拡大解釈した〉可能性の方が遥かに大きいと思います。
Re: 1400キロではなく1400メートル?
チョルスさん
>今回の記事を読んで、そもそも黛まどかは遍路道を歩いていないのではと思うようになりました。遍路道を車で適当に回っただけかもしれません(途中で少しは歩いたかもしれませんが)。それで遍路道がどういうところか分かったつもりになり、後から地図や資料などを使ってさも歩き通したかのように話をでっち上げた気がします。
まだ記事にしていないことですが・・・「歩いていないのではないか」という疑惑の濃厚に掛かる区間が多数あります。『奇跡の四国遍路』には、何も感じないで通り過ぎる人がいるはずのない行程で道や風景の描写が完全に欠落している箇所がいくつもあるのです。
>総行程1400キロとのことですが、実際に歩いた距離は1400メートル程度ではないでしょうか。
えっ、ん・・・でも・・・いや、あり得るぞ! ほんの少しだけ誇張があるような気がしますが(笑)。
>編集担当者も嘘だと分かって黛まどかの捏造に加担したのだと思います。インチキだと分かっていても、少しでも売れる本を出すために著者の捏造に加担するのはあり得ない事ではないと思います。
「売れさえすれば良い。儲かりさえすれば良い」という態度の出版社が確かに存在しますね・・・。
>今回の記事を読んで、そもそも黛まどかは遍路道を歩いていないのではと思うようになりました。遍路道を車で適当に回っただけかもしれません(途中で少しは歩いたかもしれませんが)。それで遍路道がどういうところか分かったつもりになり、後から地図や資料などを使ってさも歩き通したかのように話をでっち上げた気がします。
まだ記事にしていないことですが・・・「歩いていないのではないか」という疑惑の濃厚に掛かる区間が多数あります。『奇跡の四国遍路』には、何も感じないで通り過ぎる人がいるはずのない行程で道や風景の描写が完全に欠落している箇所がいくつもあるのです。
>総行程1400キロとのことですが、実際に歩いた距離は1400メートル程度ではないでしょうか。
えっ、ん・・・でも・・・いや、あり得るぞ! ほんの少しだけ誇張があるような気がしますが(笑)。
>編集担当者も嘘だと分かって黛まどかの捏造に加担したのだと思います。インチキだと分かっていても、少しでも売れる本を出すために著者の捏造に加担するのはあり得ない事ではないと思います。
「売れさえすれば良い。儲かりさえすれば良い」という態度の出版社が確かに存在しますね・・・。
「黛まどか」と似ている人が…
F爺様
回答いたします。
質問[1]
私の考えは、[A]と[C]に近いのですが、少し異なります。
質問[2]
「黛まどか」は、こうだったらいいな、とか、こうであって欲しいな、ということを、さも実際に起こったことのように、文章に落としているのではないか、と思うのです。
「日本人は何故、こんなにも急ぐのだろう。外国人はもっとゆったりと生きているのに」
と思えば、そんな意見を述べる外国人がいたように見せかける文章を書き、
「阪神淡路大震災では、火災が起きて大変だったわ。きっと、骨すらもも見つからない被害者もいて、今もそれを探し歩く方がいらっしゃるんでしょう」
と思えば、骨も見つからない家族を思って遍路をする人がいるような文章を書く。
これまでの、支離滅裂な文章の数々の紹介を見て、最近はそう考えるようになってきました。
そうすれば、何故、一目で骨壺だとすぐに判ったのかも説明できます。
「亡くなった家族の骨壺を抱えて、遍路をする方もいらっしゃるのでしょう。可哀想に」
と思えば、そんな状況設定の文章が出来上がるのだと思います。
この行為のタチが悪いのは、本当に起こったことも混ぜて書いていることだと思います。
少し読んだだけでは、「黛まどか」の同行者さえも、
「そういえば、こんなこともあったな。自分が見ていないところで、黛先生はこんな経験もなさっていたんだ」
と、自分を納得させてしまうことができてしまいます。
出版に当たって、編集者が何も指摘していないのは、「黛まどか」もそうだと思うのですが、本が売れればそれでよし、書いたもの勝ち、誤りを指摘されてもそんなものは所詮ごまめの歯ぎしり。気にかける必要などない、
と、読者を舐めてかかっているのだろう、と思います。
何故、「黛まどか」の心理や行動をこのように予想したか、ですが、
「~~~~細胞はあります!」
と騒いだ女が、「黛まどか」と重なるのです。
「こんな性質を持つ細胞があったらいいな、きっと私が実験したら発見できるのよ」という能天気な考えでなければ、
論文を捏造するという、学問を志す者をして最悪の行為などできません。
細胞の作り方を、自らのホーム・ページで、「英語」で記載して、素人を煙に巻く手口と、
文章中に外国人を登場させることで、疑いを持った人に追及されにくくする手口も類似しています。
最後に、このような人物たちの頭の中身を「お花畑」と表現する文章をよく見かけます。
誰が最初に作った表現なのかはわかりませんが、これは言い得て妙だな、と思いました。
回答いたします。
質問[1]
私の考えは、[A]と[C]に近いのですが、少し異なります。
質問[2]
「黛まどか」は、こうだったらいいな、とか、こうであって欲しいな、ということを、さも実際に起こったことのように、文章に落としているのではないか、と思うのです。
「日本人は何故、こんなにも急ぐのだろう。外国人はもっとゆったりと生きているのに」
と思えば、そんな意見を述べる外国人がいたように見せかける文章を書き、
「阪神淡路大震災では、火災が起きて大変だったわ。きっと、骨すらもも見つからない被害者もいて、今もそれを探し歩く方がいらっしゃるんでしょう」
と思えば、骨も見つからない家族を思って遍路をする人がいるような文章を書く。
これまでの、支離滅裂な文章の数々の紹介を見て、最近はそう考えるようになってきました。
そうすれば、何故、一目で骨壺だとすぐに判ったのかも説明できます。
「亡くなった家族の骨壺を抱えて、遍路をする方もいらっしゃるのでしょう。可哀想に」
と思えば、そんな状況設定の文章が出来上がるのだと思います。
この行為のタチが悪いのは、本当に起こったことも混ぜて書いていることだと思います。
少し読んだだけでは、「黛まどか」の同行者さえも、
「そういえば、こんなこともあったな。自分が見ていないところで、黛先生はこんな経験もなさっていたんだ」
と、自分を納得させてしまうことができてしまいます。
出版に当たって、編集者が何も指摘していないのは、「黛まどか」もそうだと思うのですが、本が売れればそれでよし、書いたもの勝ち、誤りを指摘されてもそんなものは所詮ごまめの歯ぎしり。気にかける必要などない、
と、読者を舐めてかかっているのだろう、と思います。
何故、「黛まどか」の心理や行動をこのように予想したか、ですが、
「~~~~細胞はあります!」
と騒いだ女が、「黛まどか」と重なるのです。
「こんな性質を持つ細胞があったらいいな、きっと私が実験したら発見できるのよ」という能天気な考えでなければ、
論文を捏造するという、学問を志す者をして最悪の行為などできません。
細胞の作り方を、自らのホーム・ページで、「英語」で記載して、素人を煙に巻く手口と、
文章中に外国人を登場させることで、疑いを持った人に追及されにくくする手口も類似しています。
最後に、このような人物たちの頭の中身を「お花畑」と表現する文章をよく見かけます。
誰が最初に作った表現なのかはわかりませんが、これは言い得て妙だな、と思いました。
Re: 「黛まどか」と似ている人が…
「106」さん
>「黛まどか」は、こうだったらいいな、とか、こうであって欲しいな、ということを、さも実際に起こったことのように、文章に落としているのではないか、と思うのです。
日本人は何故、こんなにも急ぐのだろう。外国人はもっとゆったりと生きているのに」
と思えば、そんな意見を述べる外国人がいたように見せかける文章を書き、
「阪神淡路大震災では、火災が起きて大変だったわ。きっと、骨すらもも見つからない被害者もいて、今もそれを探し歩く方がいらっしゃるんでしょう」
と思えば、骨も見つからない家族を思って遍路をする人がいるような文章を書く。
これまでの、支離滅裂な文章の数々の紹介を見て、最近はそう考えるようになってきました。
なるほど。そういう見方も成り立ちますね。
F爺は、これまで「黛まどか」には
【「自分には特殊な能力があって常人には出来ない経験や出会いを頻繁にする」と自分でも思い込みたいし読者にも思わせたい】
という病的な自己顕示欲があると考えて来ました。
裏返せば、その欲望の根底にあるのは、
【自分には、実は、自慢できるような何の能力も無い。しかも嘘吐きだ】
という自覚です。
お涙頂戴の話などを捏造して、辻褄が合っていないことに気付かない愚かさに驚きます。別種の馬鹿馬鹿しい「経験」を捏造してそれを「奇跡」と呼んでいます。その行動様式を、真実軽視主義を、大新聞社や大出版社の少なくとも一部が是認しているように見えるのが不思議です。
>この行為のタチが悪いのは、本当に起こったことも混ぜて書いていることだと思います。
少し読んだだけでは、「黛まどか」の同行者さえも、
「そういえば、こんなこともあったな。自分が見ていないところで、黛先生はこんな経験もなさっていたんだ」
と、自分を納得させてしまうことができてしまいます。
そうですね。「同行者」は、今のところ「まだ目が眩んでいる」状態で、数々の嘘を認識していないのかもしれません。
>出版に当たって、編集者が何も指摘していないのは、「黛まどか」もそうだと思うのですが、本が売れればそれでよし、書いたもの勝ち、誤りを指摘されてもそんなものは所詮ごまめの歯ぎしり。気にかける必要などない、
と、読者を舐めてかかっているのだろう、と思います。
F爺も、そう思います。「読者を舐めてかかっているのだ」と。
>細胞の作り方を、自らのホーム・ページで、「英語」で記載して、素人を煙に巻く手口と、
文章中に外国人を登場させることで、疑いを持った人に追及されにくくする手口も類似しています。
手口の稚拙さ、幼稚さが、そう言えば、よく似ていますね。化けの皮は剥がれるものだということ、既に多くの読者に見透かされていることに「気付こうとしない」態度もそっくりです。
>最後に、このような人物たちの頭の中身を「お花畑」と表現する文章をよく見かけます。
誰が最初に作った表現なのかはわかりませんが、これは言い得て妙だな、と思いました。
「脳内花畑」とか「お花畑な」とかの表現、最近よく聞きますね・・・。
>「黛まどか」は、こうだったらいいな、とか、こうであって欲しいな、ということを、さも実際に起こったことのように、文章に落としているのではないか、と思うのです。
日本人は何故、こんなにも急ぐのだろう。外国人はもっとゆったりと生きているのに」
と思えば、そんな意見を述べる外国人がいたように見せかける文章を書き、
「阪神淡路大震災では、火災が起きて大変だったわ。きっと、骨すらもも見つからない被害者もいて、今もそれを探し歩く方がいらっしゃるんでしょう」
と思えば、骨も見つからない家族を思って遍路をする人がいるような文章を書く。
これまでの、支離滅裂な文章の数々の紹介を見て、最近はそう考えるようになってきました。
なるほど。そういう見方も成り立ちますね。
F爺は、これまで「黛まどか」には
【「自分には特殊な能力があって常人には出来ない経験や出会いを頻繁にする」と自分でも思い込みたいし読者にも思わせたい】
という病的な自己顕示欲があると考えて来ました。
裏返せば、その欲望の根底にあるのは、
【自分には、実は、自慢できるような何の能力も無い。しかも嘘吐きだ】
という自覚です。
お涙頂戴の話などを捏造して、辻褄が合っていないことに気付かない愚かさに驚きます。別種の馬鹿馬鹿しい「経験」を捏造してそれを「奇跡」と呼んでいます。その行動様式を、真実軽視主義を、大新聞社や大出版社の少なくとも一部が是認しているように見えるのが不思議です。
>この行為のタチが悪いのは、本当に起こったことも混ぜて書いていることだと思います。
少し読んだだけでは、「黛まどか」の同行者さえも、
「そういえば、こんなこともあったな。自分が見ていないところで、黛先生はこんな経験もなさっていたんだ」
と、自分を納得させてしまうことができてしまいます。
そうですね。「同行者」は、今のところ「まだ目が眩んでいる」状態で、数々の嘘を認識していないのかもしれません。
>出版に当たって、編集者が何も指摘していないのは、「黛まどか」もそうだと思うのですが、本が売れればそれでよし、書いたもの勝ち、誤りを指摘されてもそんなものは所詮ごまめの歯ぎしり。気にかける必要などない、
と、読者を舐めてかかっているのだろう、と思います。
F爺も、そう思います。「読者を舐めてかかっているのだ」と。
>細胞の作り方を、自らのホーム・ページで、「英語」で記載して、素人を煙に巻く手口と、
文章中に外国人を登場させることで、疑いを持った人に追及されにくくする手口も類似しています。
手口の稚拙さ、幼稚さが、そう言えば、よく似ていますね。化けの皮は剥がれるものだということ、既に多くの読者に見透かされていることに「気付こうとしない」態度もそっくりです。
>最後に、このような人物たちの頭の中身を「お花畑」と表現する文章をよく見かけます。
誰が最初に作った表現なのかはわかりませんが、これは言い得て妙だな、と思いました。
「脳内花畑」とか「お花畑な」とかの表現、最近よく聞きますね・・・。
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
日本語が崩壊
私は、以下のような仮説を考えました。
「黛まどか」は、「脚の故障の時を除いては、それまで一メートルでさえ、乗り物に乗ったことはなかった」という文章で、 〈脚の怪我の時を除いては、それまで一メートルでさえ、乗り物を利用して遍路道の行程を飛ばしたことは無かった〉という意味のことが表現できたと思い込んでいる。(他の記事でご指摘のある通り、実際には、焼山寺越えなどで「遍路道の行程を飛ばしたことがあった」可能性もあるのですが)。
つまり、「黛まどか」は、自分の書いた文章がどんな意味になるのか理解していない。言い換えると、「黛まどか」には、自分の言いたいことを、正確に、読者に誤解無く伝わるように日本語で表現する能力が無い。編集者も適当な仕事をしているため、もしくは職務を完全に放棄しているため、訂正には至らなかった。
この仮説が正しいとすると、「黛まどか」の著作に現れるどの一文も、文字通りに受け取ってはいけない、ということになります。著者が書く前に表現したいと思っていることと実際に書くことの間に大幅なズレがあるのですから。「乗り物に乗ったことはない」と書いてあっても、「乗り物に乗ったことはある」のかもしれない。「歩いた」と書いてあっても、「歩いていない」のかもしれない。「走った」と書いてあっても、「走っていない」のかもしれない。逆に言うと、「タクシーに乗った」と書いてあっても、実際には歩いたかもしれないわけです(笑)。
つまり、『奇跡の四国遍路』の中では、言語が言語としての機能を果たしていないのです。日本語が完全に崩壊しています。
私は、〈自称公認先達「K子」〉の文章を思い出しています。「K子」の文章にも、〈F爺は、「地の物が食べたい」と言った〉という意味の「真っ赤な嘘」が書いてありました。日本語の異常な誤用も頻出しました。「黛まどか」の文章も、「K子」の文章も、日本語が日本語としてまともに機能していないのです。真面目に読み込もうとすると、頭がおかしくなりそうで、危険です。
あ、もしかすると、「黛まどか」は、「矛盾律」の崩壊したパラレル・ワールドを描いたつもりなのかもしれませんね。
「黛まどか」は、「脚の故障の時を除いては、それまで一メートルでさえ、乗り物に乗ったことはなかった」という文章で、 〈脚の怪我の時を除いては、それまで一メートルでさえ、乗り物を利用して遍路道の行程を飛ばしたことは無かった〉という意味のことが表現できたと思い込んでいる。(他の記事でご指摘のある通り、実際には、焼山寺越えなどで「遍路道の行程を飛ばしたことがあった」可能性もあるのですが)。
つまり、「黛まどか」は、自分の書いた文章がどんな意味になるのか理解していない。言い換えると、「黛まどか」には、自分の言いたいことを、正確に、読者に誤解無く伝わるように日本語で表現する能力が無い。編集者も適当な仕事をしているため、もしくは職務を完全に放棄しているため、訂正には至らなかった。
この仮説が正しいとすると、「黛まどか」の著作に現れるどの一文も、文字通りに受け取ってはいけない、ということになります。著者が書く前に表現したいと思っていることと実際に書くことの間に大幅なズレがあるのですから。「乗り物に乗ったことはない」と書いてあっても、「乗り物に乗ったことはある」のかもしれない。「歩いた」と書いてあっても、「歩いていない」のかもしれない。「走った」と書いてあっても、「走っていない」のかもしれない。逆に言うと、「タクシーに乗った」と書いてあっても、実際には歩いたかもしれないわけです(笑)。
つまり、『奇跡の四国遍路』の中では、言語が言語としての機能を果たしていないのです。日本語が完全に崩壊しています。
私は、〈自称公認先達「K子」〉の文章を思い出しています。「K子」の文章にも、〈F爺は、「地の物が食べたい」と言った〉という意味の「真っ赤な嘘」が書いてありました。日本語の異常な誤用も頻出しました。「黛まどか」の文章も、「K子」の文章も、日本語が日本語としてまともに機能していないのです。真面目に読み込もうとすると、頭がおかしくなりそうで、危険です。
あ、もしかすると、「黛まどか」は、「矛盾律」の崩壊したパラレル・ワールドを描いたつもりなのかもしれませんね。
Re: 日本語が崩壊
「みやゆふ」さん
なかなか面白い仮説です。高度な論理の問題なので(笑)、最初に「えー、お笑いを一席」と断ってあると、もっと分かりやすかったと思います。
「黛まどか」の文章は、これまでにこのブログで話題にしただけでも、
〈4月20日(またはその前日か翌日)の午後四時半過ぎに空が薄暗くなり、やがて夕空が広がった〉だの
〈禅師峰寺の境内から、三里の砂浜でも種崎でもなく、さらには高知新港も見えないまま、桂浜が広がって見える〉だの
〈浦戸湾の西側の桂浜で宿を取った翌日、車に乗らないで移動して、浦戸湾の東側の種崎からフェリーに乗って西側へ渡った〉だの
〈JR伊予北条駅からJR今治駅までの29kmは、「黛まどか」が歩いたり走ったりすると「35km」ある〉だの
現実にはあり得ないことの連続です。
従って、「みやゆふ」さんの仮説が仮に正しくなかったとしても、経験則として
「「黛まどか」の著作に現れるどの一文も、文字通りに受け取ってはいけない」
という陳述は、正しいのです。
>私は、〈自称公認先達「K子」〉の文章を思い出しています。「K子」の文章にも、〈F爺は、「地の物が食べたい」と言った〉という意味の「真っ赤な嘘」が書いてありました。日本語の異常な誤用も頻出しました。「黛まどか」の文章も、「K子」の文章も、日本語が日本語としてまともに機能していないのです。真面目に読み込もうとすると、頭がおかしくなりそうで、危険です。
「K子」と「黛まどか」の共通点は、
〈自分の書いた文字列は論理が常に破綻しているという自覚が無い〉
ことですね。
相違点は、二種類あります。
一つ、「K子」が逆恨みで辻褄の合わない攻撃を繰り返すのに対して、「黛まどか」は、今のところ、「何も聞こえないふり」をしていることです。増田恵美子などを使って「聞く意思が無い」と間接的には表明しています。
二つ、「K子」の書くことは、他者の校閲を経ていません。100%自分の責任です。「黛まどか」の文章は、編集部の校閲を経ています。東京新聞と中公新書ラクレも「共犯」です。
>あ、もしかすると、「黛まどか」は、「矛盾律」の崩壊したパラレル・ワールドを描いたつもりなのかもしれませんね。
いや、「黛まどか」は、そのパラレル・ワールドに住んでいるのです。自分の目に映ったと思い込んでいることを「素直に」描いているのです。
なかなか面白い仮説です。高度な論理の問題なので(笑)、最初に「えー、お笑いを一席」と断ってあると、もっと分かりやすかったと思います。
「黛まどか」の文章は、これまでにこのブログで話題にしただけでも、
〈4月20日(またはその前日か翌日)の午後四時半過ぎに空が薄暗くなり、やがて夕空が広がった〉だの
〈禅師峰寺の境内から、三里の砂浜でも種崎でもなく、さらには高知新港も見えないまま、桂浜が広がって見える〉だの
〈浦戸湾の西側の桂浜で宿を取った翌日、車に乗らないで移動して、浦戸湾の東側の種崎からフェリーに乗って西側へ渡った〉だの
〈JR伊予北条駅からJR今治駅までの29kmは、「黛まどか」が歩いたり走ったりすると「35km」ある〉だの
現実にはあり得ないことの連続です。
従って、「みやゆふ」さんの仮説が仮に正しくなかったとしても、経験則として
「「黛まどか」の著作に現れるどの一文も、文字通りに受け取ってはいけない」
という陳述は、正しいのです。
>私は、〈自称公認先達「K子」〉の文章を思い出しています。「K子」の文章にも、〈F爺は、「地の物が食べたい」と言った〉という意味の「真っ赤な嘘」が書いてありました。日本語の異常な誤用も頻出しました。「黛まどか」の文章も、「K子」の文章も、日本語が日本語としてまともに機能していないのです。真面目に読み込もうとすると、頭がおかしくなりそうで、危険です。
「K子」と「黛まどか」の共通点は、
〈自分の書いた文字列は論理が常に破綻しているという自覚が無い〉
ことですね。
相違点は、二種類あります。
一つ、「K子」が逆恨みで辻褄の合わない攻撃を繰り返すのに対して、「黛まどか」は、今のところ、「何も聞こえないふり」をしていることです。増田恵美子などを使って「聞く意思が無い」と間接的には表明しています。
二つ、「K子」の書くことは、他者の校閲を経ていません。100%自分の責任です。「黛まどか」の文章は、編集部の校閲を経ています。東京新聞と中公新書ラクレも「共犯」です。
>あ、もしかすると、「黛まどか」は、「矛盾律」の崩壊したパラレル・ワールドを描いたつもりなのかもしれませんね。
いや、「黛まどか」は、そのパラレル・ワールドに住んでいるのです。自分の目に映ったと思い込んでいることを「素直に」描いているのです。