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一種類か他種類か
素人質問に対して別記事を立てて下さって、どうもありがとうございます。
西洋諸語の複数形は加算複数(多数の場合もあれば、少数の場合もある)を示すのに対して、日本語の集合標識は不可算多数を示すものである、というご説明と具体例には非常に説得力があり、かつ明解でした。「花々」「人々」は辞書の見出し語にするべきだ、という剛一さんの意見にも強く同意します。
ただ、複数名詞が「同じ種類のものが不可算多数」あることを示すのか、「多種類のものが不可算多数」あることを示すものなのかについて、ちょっと混乱しています。
というのも、ご著書『再構築した日本語文法』64頁では「『花々』など…同語反復によって成立した集合名詞は『同じ種類のものが不可算多数』あることを示します」と書いてあります。それに対して、この記事では「…『花々』は、多種類の花が不可算多数あるときに用いる言葉なのです」とあります。
ということは、つまり、日本語の集合標識と集合名詞は、不加算多数であれば一種類のものにも多種類のものにも使うことができて、そのどちらになるかは示す対象によって異なる、ということでしょうか(例えば「人々」「村々」「国々」の場合は後者、というように)。
僕の語感としては様々な形態、種類のものを含んだ一つのくくり(花、国、村)に対して使うもの、というように思えますが、いかがでしょうか。
西洋諸語の複数形は加算複数(多数の場合もあれば、少数の場合もある)を示すのに対して、日本語の集合標識は不可算多数を示すものである、というご説明と具体例には非常に説得力があり、かつ明解でした。「花々」「人々」は辞書の見出し語にするべきだ、という剛一さんの意見にも強く同意します。
ただ、複数名詞が「同じ種類のものが不可算多数」あることを示すのか、「多種類のものが不可算多数」あることを示すものなのかについて、ちょっと混乱しています。
というのも、ご著書『再構築した日本語文法』64頁では「『花々』など…同語反復によって成立した集合名詞は『同じ種類のものが不可算多数』あることを示します」と書いてあります。それに対して、この記事では「…『花々』は、多種類の花が不可算多数あるときに用いる言葉なのです」とあります。
ということは、つまり、日本語の集合標識と集合名詞は、不加算多数であれば一種類のものにも多種類のものにも使うことができて、そのどちらになるかは示す対象によって異なる、ということでしょうか(例えば「人々」「村々」「国々」の場合は後者、というように)。
僕の語感としては様々な形態、種類のものを含んだ一つのくくり(花、国、村)に対して使うもの、というように思えますが、いかがでしょうか。
Re: 一種類か他種類か
R君
「花」には、「向日葵(ひまわり)」「蒲公英(たんぽぽ)」「紫陽花(あじさい)」「梅」「桜」などの下位区分があります。「コスモスだけ一面に」あっても「花々」とは言いませんね。
「人」にも「船員」「消防士」「看護師」「専業主婦」「中学生」などの下位区分があります。「制服を着たサッカー選手だけ多数」いる場合に「人々」とは言いませんね。
ところが「山々」と言う時、「山」の下位区分は問題になりません。「岩山ばかり多数」でも「頂上まで緑の山が多数」でも「火山ばかり多数」でも「山々」と言います。「多種類の山」でなくても良いのです。
「国々」と言う時の「国」の下位区分も問題になりません。「王国ばかりいくつか」でも「共和国ばかりいくつか」でも「島国ばかりいくつか」でも「海への出口の無い内陸国ばかりいくつか」でも「国々」と言います。「多種類の国」でなくても良いのです。
「○々」という書き方をする語について『再構築した日本語文法』で「同じ種類のものが不可算多数」と書いたのは、「例えば『花』という範疇に入るもの、一括りに『花』と呼べるもの」という意味です。花の下位区分のことは言っていないのです。
「花々」についてこのブログの「集合名詞と複数形の違い」という記事で「多種類の花が不可算多数あるときに用いる言葉なのです」と書いたのは、「花の下位区分」のことを言っています。
『再構築した日本語文法』では、「花々」と「山々」の「範疇階梯の違い」にまでは踏み込めませんでした。それをすると、他にも同等に踏み込むべきことがたくさんありますから、数巻に分けた本になってしまうのです。『花々と津々浦々』と題して一冊の本が書けるくらいですよ。
「花」には、「向日葵(ひまわり)」「蒲公英(たんぽぽ)」「紫陽花(あじさい)」「梅」「桜」などの下位区分があります。「コスモスだけ一面に」あっても「花々」とは言いませんね。
「人」にも「船員」「消防士」「看護師」「専業主婦」「中学生」などの下位区分があります。「制服を着たサッカー選手だけ多数」いる場合に「人々」とは言いませんね。
ところが「山々」と言う時、「山」の下位区分は問題になりません。「岩山ばかり多数」でも「頂上まで緑の山が多数」でも「火山ばかり多数」でも「山々」と言います。「多種類の山」でなくても良いのです。
「国々」と言う時の「国」の下位区分も問題になりません。「王国ばかりいくつか」でも「共和国ばかりいくつか」でも「島国ばかりいくつか」でも「海への出口の無い内陸国ばかりいくつか」でも「国々」と言います。「多種類の国」でなくても良いのです。
「○々」という書き方をする語について『再構築した日本語文法』で「同じ種類のものが不可算多数」と書いたのは、「例えば『花』という範疇に入るもの、一括りに『花』と呼べるもの」という意味です。花の下位区分のことは言っていないのです。
「花々」についてこのブログの「集合名詞と複数形の違い」という記事で「多種類の花が不可算多数あるときに用いる言葉なのです」と書いたのは、「花の下位区分」のことを言っています。
『再構築した日本語文法』では、「花々」と「山々」の「範疇階梯の違い」にまでは踏み込めませんでした。それをすると、他にも同等に踏み込むべきことがたくさんありますから、数巻に分けた本になってしまうのです。『花々と津々浦々』と題して一冊の本が書けるくらいですよ。
複数形の存在意義
>数詞がすでに明確に「多数」を示しているのですから、わざわざ名詞や動詞や形容詞まで形を変える必要は無いのです。日本語は、無駄の無い言語です。
まったく同感です。今まで生きてきて「複数形がない」ことで困ったことなんか一度もありません。
ただ、逆に不思議に思います。英語やフランス語はなんで不要な区別をしつこく行うのでしょう・・?
たぶん、連中には単数と複数を是非とも分けたい理由があった。たとえそれが機能的に必要ではなくても何らかの「思い込み」として「単複を分けたい」情熱があった。「一神教のせいかな」と安易に考えましたが、おそらく複数形の成立はキリスト教伝来より前なんでしょうから、たぶんそういうことではない。何なんでしょうね、いったい。
(もしすでに当ブログにて解説されていたら申し訳ありません。全部読めてないもので・・・。)
まったく同感です。今まで生きてきて「複数形がない」ことで困ったことなんか一度もありません。
ただ、逆に不思議に思います。英語やフランス語はなんで不要な区別をしつこく行うのでしょう・・?
たぶん、連中には単数と複数を是非とも分けたい理由があった。たとえそれが機能的に必要ではなくても何らかの「思い込み」として「単複を分けたい」情熱があった。「一神教のせいかな」と安易に考えましたが、おそらく複数形の成立はキリスト教伝来より前なんでしょうから、たぶんそういうことではない。何なんでしょうね、いったい。
(もしすでに当ブログにて解説されていたら申し訳ありません。全部読めてないもので・・・。)
Re: 複数形の存在意義
馬場伸一さん
>ただ、逆に不思議に思います。英語やフランス語はなんで不要な区別をしつこく行うのでしょう・・?
この疑問に対する解答は、存在しません。英語やフランス語が成立する以前から印欧諸語などに広く行き渡っている現象なのです。
当ブログでもこの問題をもう少し掘り下げる予定ですが、掲載までには、十日ぐらいお待ちください。ただ、疑問に答える内容ではないことを予め申し上げておきます。
>ただ、逆に不思議に思います。英語やフランス語はなんで不要な区別をしつこく行うのでしょう・・?
この疑問に対する解答は、存在しません。英語やフランス語が成立する以前から印欧諸語などに広く行き渡っている現象なのです。
当ブログでもこの問題をもう少し掘り下げる予定ですが、掲載までには、十日ぐらいお待ちください。ただ、疑問に答える内容ではないことを予め申し上げておきます。