何語もまともに話せない「黛まどか」
- 2018/12/26
- 20:18
(「謎[1] なぜ走る?」の項の末尾に追記があります)
H. septentrionalisさんからブログ記事〈「メタファー(= 暗喩/隠喩)」と「暗示」が同義だと思い込んでいる「黛まどか」〉に届いたコメントの前半は、「黛まどか」の著書『奇跡の四国遍路』に現われる「外国語能力」が主題になっています。
引用
コメントの前半を引用します。色分けと太字は、F爺が勝手に施しました。また、読みやすくするため、原文には無いのですが、段落の間で行を空けています。
なお、原文では「アルファベット」となっているのを「[ラテン文字]」で置き換えました。「ギリシャ文字」「ブルガリア文字」「ロシア文字」「セルビア文字」「グルジア文字」「アラブ文字」「ヘブライ文字」などが全てアルファベットですから、「アルファベット」だけでは、どの文字のことか判らないのです。
*****
(・・・)
伊予北条駅から五十四番延命寺にかけての節のP126に、「黛まどか」の発言を[ラテン文字]で記す場面があります。
五十四番延命寺まで8kmの地点で(午後)四時五分となり、時間に余裕がなくなったため延命寺をめがけて走り出すのですが、「間に合えば墨書をもらい、間に合わなければ諦めよう」と覚悟を決め、Let's see!と感嘆符つきで記してあります。地の文としては、本書で唯一、[ラテン文字]で記述しているところです。
文脈からすると「とにかく行ってみよう」と自分自身を鼓舞する場面ですが、浅学な私にはLet's see!では「ええと!」以外、意味がとれませんでした。遡ってみると、P87とP90でドイツ人の「ユリウス」が会話文で「Let's see!」と話しておりました。文脈からすると、前者は行ってみよう、後者はまた会おうという意味で使っているようです。念のため、英英辞典などで調べてみましたが、「Let's see!」の適切な訳は見つかりませんでした。投稿の作法に悖ることは、重々、承知しておりますが、後学のため、上にあげた場面で「Let's see!」が適切な文であるのか、どなたかお教えいただければ幸いです。
と、ここで思ったのですが、「黛まどか」は遍路中で出会った外国人と、何語で話していたのか気になりました。本文中では、外国人も「」内でほとんどすべて日本語で話しているので、日本語でのみとも思ったのですが、P66で、オランダ人の「リサ」が「ベジタリアンの友人のため....宿に頼んでくれない?」と(当然、日本語以外で)依頼していますので、全てが日本語でと言うわけでもないようです。オランダ語は「ダンキュ・ベル」の一語(文)のみ(P66)、フランス語はあまり通じないようです(P103) 。「問答」のP246で「パウロ・コエーリョ」氏と旅をし、英語で会話した経験が語られていますので、英会話はできますから、英語だったのでしょうね。
ちなみに、ここで「黛まどか」は再び「メタファ」に言及し、「遍路や巡礼には「メタファ」が溢れています。身体を使って歩いているとそのメタファに気づき、考えるようになります。ニュートンの「りんご」です」と意味不明なことをおっしゃっています。
*****
外国語能力だけでなく、いくつもの「謎」が重なり合っています。
謎[1] なぜ走る?
>五十四番延命寺まで8kmの地点で(午後)四時五分となり、時間に余裕がなくなったため延命寺をめがけて走り出すのですが、
無理をして走る理由がありません。
「黛まどか」は、著作の中で、自分たち(*)以外の日本人のお遍路さんがせっせと歩くのを見ては
〈なぜ急ぐのか。ドイツ人やオランダ人のように、もっとゆっくり歩いて、人との出会いを大切にしろ。土佐神社にも参拝しろ〉
云々と非難しているのです。
(*) 問屋正勝さんや田中全さんがウェブ上に公表している情報から、いかにも一人で歩いたような書き方をしている「黛まどか」に、少なくとも、1番札所の霊山寺に参拝した日から高知県の西の端に近い所で田中全さんと会った日までは、常に同伴者のいたことが判明しています。その後の行程でも、常に同伴者がいたと推定しないと辻褄の合わない記述や画像が多数あります。
【他人には〈急ぐな。出会いの可能性を蔑ろにするのは愚かだ〉と言っておいて、自分は大荷物を背負って8kmも走ってまで翌朝でも構わない納経一つのために急ぐ】
というのは、辻褄が合いません。「黛まどか」の「理由付け」は、支離滅裂です。
追記 2018年12月27日
『奇跡の四国遍路』のこの箇所には、信憑性がありません。ブログ記事〈「黛まどか」の遍路本(3)〉と〈「黛まどか」の「奇跡」を誰が信じるのか〉も是非ご覧ください。なお、「黛まどか」の言ったり書いたりすることで信憑性が無いのは、この箇所だけではありません。
謎[2]「黛まどか語」の「Let’s see !」はどういう意味のつもり?
英語の言い廻し「Let’s see !」は、多義語句です。文脈と後続の副文の内容によって
「ええっと」
「どれどれ」
「さてどうなるかねえ」
「○○してみようか」
「○○を調べてみなくちゃ」
など、さまざまな意味と含蓄で用います。
「黛まどか」は、漢字ひらがなカタカナ交じりの文字列の中で、そこだけ横文字で、説明無しで「Let’s see !」と書いています。これでは、意味は「不明」に決まっています。
はっきりした意味のあることが言いたいのなら、横文字を弄(もてあそ)ばず、明晰な日本語で書けば良いのです。
ここではっきりしているのは・・・「黛まどか」が英語かぶれであることだけです。
謎[3]「黛まどか」は、オランダ人やドイツ人と何語で話したのか
> P66で、オランダ人の「リサ」が「ベジタリアンの友人のため....宿に頼んでくれない?」と(当然、日本語以外で)依頼していますので、全てが日本語でと言うわけでもないようです。オランダ語は「ダンキュ・ベル」の一語(文)のみ(P66)、フランス語はあまり通じないようです(P103) 。
予備知識の無い読者は、
《多分、英語で話したんだろう》
と思うことでしょうね。F爺も、初めはそう思っていました。
ところが、「黛まどか」の記述は矛盾だらけです。そもそも登場するドイツ人やオランダ人の実在自体が疑わしいのです。
《何語で話したのか》
と思い巡らすのは、止(や)めました。何語も話していない可能性が一番大きいからです。
なお、「黛まどか」は、フランス語のフの字も知りません。
謎[4] なぜ、意味も知らずにカタカナ語「メタファ」を濫用するのか
>ここで「黛まどか」は再び「メタファ」に言及し、
「遍路や巡礼には「メタファ」が溢れています。身体を使って歩いているとそのメタファに気づき、考えるようになります。ニュートンの「りんご」です」
と意味不明なことを
H. septentrionalisさんのご指摘の通り、幾重にも意味不明です。
世界のあちこちに「巡礼」の風習があります。その中でも特に「四国八十八箇所の巡礼」のことを「遍路」または「四国遍路」と言います。言い換えると、「遍路」は、「巡礼」の一種です。「遍路や巡礼」という文字列は、意味を成しません。
「メタファ」は、「暗喩/隠喩」のことです。〈「暗喩/隠喩」が溢れています〉という文字列も意味を成しません。
「歩く」は、「自分の足腰を使って、跳んだり走ったり這ったり泳いだりせずに、進む」ことです。「身体を使って歩いていると」という文字列も意味を成しません。「身体を使わないで歩く」ことは不可能ですから。
〈ニュートンの「りんご」〉は、暗喩/隠喩とは無関係です。
「黛まどか」は、日本語がまともに話せないのです。外国語がまともに話せるわけはありません。
H. septentrionalisさんからブログ記事〈「メタファー(= 暗喩/隠喩)」と「暗示」が同義だと思い込んでいる「黛まどか」〉に届いたコメントの前半は、「黛まどか」の著書『奇跡の四国遍路』に現われる「外国語能力」が主題になっています。
引用
コメントの前半を引用します。色分けと太字は、F爺が勝手に施しました。また、読みやすくするため、原文には無いのですが、段落の間で行を空けています。
なお、原文では「アルファベット」となっているのを「[ラテン文字]」で置き換えました。「ギリシャ文字」「ブルガリア文字」「ロシア文字」「セルビア文字」「グルジア文字」「アラブ文字」「ヘブライ文字」などが全てアルファベットですから、「アルファベット」だけでは、どの文字のことか判らないのです。
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(・・・)
伊予北条駅から五十四番延命寺にかけての節のP126に、「黛まどか」の発言を[ラテン文字]で記す場面があります。
五十四番延命寺まで8kmの地点で(午後)四時五分となり、時間に余裕がなくなったため延命寺をめがけて走り出すのですが、「間に合えば墨書をもらい、間に合わなければ諦めよう」と覚悟を決め、Let's see!と感嘆符つきで記してあります。地の文としては、本書で唯一、[ラテン文字]で記述しているところです。
文脈からすると「とにかく行ってみよう」と自分自身を鼓舞する場面ですが、浅学な私にはLet's see!では「ええと!」以外、意味がとれませんでした。遡ってみると、P87とP90でドイツ人の「ユリウス」が会話文で「Let's see!」と話しておりました。文脈からすると、前者は行ってみよう、後者はまた会おうという意味で使っているようです。念のため、英英辞典などで調べてみましたが、「Let's see!」の適切な訳は見つかりませんでした。投稿の作法に悖ることは、重々、承知しておりますが、後学のため、上にあげた場面で「Let's see!」が適切な文であるのか、どなたかお教えいただければ幸いです。
と、ここで思ったのですが、「黛まどか」は遍路中で出会った外国人と、何語で話していたのか気になりました。本文中では、外国人も「」内でほとんどすべて日本語で話しているので、日本語でのみとも思ったのですが、P66で、オランダ人の「リサ」が「ベジタリアンの友人のため....宿に頼んでくれない?」と(当然、日本語以外で)依頼していますので、全てが日本語でと言うわけでもないようです。オランダ語は「ダンキュ・ベル」の一語(文)のみ(P66)、フランス語はあまり通じないようです(P103) 。「問答」のP246で「パウロ・コエーリョ」氏と旅をし、英語で会話した経験が語られていますので、英会話はできますから、英語だったのでしょうね。
ちなみに、ここで「黛まどか」は再び「メタファ」に言及し、「遍路や巡礼には「メタファ」が溢れています。身体を使って歩いているとそのメタファに気づき、考えるようになります。ニュートンの「りんご」です」と意味不明なことをおっしゃっています。
*****
外国語能力だけでなく、いくつもの「謎」が重なり合っています。
謎[1] なぜ走る?
>五十四番延命寺まで8kmの地点で(午後)四時五分となり、時間に余裕がなくなったため延命寺をめがけて走り出すのですが、
無理をして走る理由がありません。
「黛まどか」は、著作の中で、自分たち(*)以外の日本人のお遍路さんがせっせと歩くのを見ては
〈なぜ急ぐのか。ドイツ人やオランダ人のように、もっとゆっくり歩いて、人との出会いを大切にしろ。土佐神社にも参拝しろ〉
云々と非難しているのです。
(*) 問屋正勝さんや田中全さんがウェブ上に公表している情報から、いかにも一人で歩いたような書き方をしている「黛まどか」に、少なくとも、1番札所の霊山寺に参拝した日から高知県の西の端に近い所で田中全さんと会った日までは、常に同伴者のいたことが判明しています。その後の行程でも、常に同伴者がいたと推定しないと辻褄の合わない記述や画像が多数あります。
【他人には〈急ぐな。出会いの可能性を蔑ろにするのは愚かだ〉と言っておいて、自分は大荷物を背負って8kmも走ってまで翌朝でも構わない納経一つのために急ぐ】
というのは、辻褄が合いません。「黛まどか」の「理由付け」は、支離滅裂です。
追記 2018年12月27日
『奇跡の四国遍路』のこの箇所には、信憑性がありません。ブログ記事〈「黛まどか」の遍路本(3)〉と〈「黛まどか」の「奇跡」を誰が信じるのか〉も是非ご覧ください。なお、「黛まどか」の言ったり書いたりすることで信憑性が無いのは、この箇所だけではありません。
謎[2]「黛まどか語」の「Let’s see !」はどういう意味のつもり?
英語の言い廻し「Let’s see !」は、多義語句です。文脈と後続の副文の内容によって
「ええっと」
「どれどれ」
「さてどうなるかねえ」
「○○してみようか」
「○○を調べてみなくちゃ」
など、さまざまな意味と含蓄で用います。
「黛まどか」は、漢字ひらがなカタカナ交じりの文字列の中で、そこだけ横文字で、説明無しで「Let’s see !」と書いています。これでは、意味は「不明」に決まっています。
はっきりした意味のあることが言いたいのなら、横文字を弄(もてあそ)ばず、明晰な日本語で書けば良いのです。
ここではっきりしているのは・・・「黛まどか」が英語かぶれであることだけです。
謎[3]「黛まどか」は、オランダ人やドイツ人と何語で話したのか
> P66で、オランダ人の「リサ」が「ベジタリアンの友人のため....宿に頼んでくれない?」と(当然、日本語以外で)依頼していますので、全てが日本語でと言うわけでもないようです。オランダ語は「ダンキュ・ベル」の一語(文)のみ(P66)、フランス語はあまり通じないようです(P103) 。
予備知識の無い読者は、
《多分、英語で話したんだろう》
と思うことでしょうね。F爺も、初めはそう思っていました。
ところが、「黛まどか」の記述は矛盾だらけです。そもそも登場するドイツ人やオランダ人の実在自体が疑わしいのです。
《何語で話したのか》
と思い巡らすのは、止(や)めました。何語も話していない可能性が一番大きいからです。
なお、「黛まどか」は、フランス語のフの字も知りません。
謎[4] なぜ、意味も知らずにカタカナ語「メタファ」を濫用するのか
>ここで「黛まどか」は再び「メタファ」に言及し、
「遍路や巡礼には「メタファ」が溢れています。身体を使って歩いているとそのメタファに気づき、考えるようになります。ニュートンの「りんご」です」
と意味不明なことを
H. septentrionalisさんのご指摘の通り、幾重にも意味不明です。
世界のあちこちに「巡礼」の風習があります。その中でも特に「四国八十八箇所の巡礼」のことを「遍路」または「四国遍路」と言います。言い換えると、「遍路」は、「巡礼」の一種です。「遍路や巡礼」という文字列は、意味を成しません。
「メタファ」は、「暗喩/隠喩」のことです。〈「暗喩/隠喩」が溢れています〉という文字列も意味を成しません。
「歩く」は、「自分の足腰を使って、跳んだり走ったり這ったり泳いだりせずに、進む」ことです。「身体を使って歩いていると」という文字列も意味を成しません。「
〈ニュートンの「りんご」〉は、暗喩/隠喩とは無関係です。
「黛まどか」は、日本語がまともに話せないのです。外国語がまともに話せるわけはありません。