コメント
時制について
日本語の形容詞や動詞が「時に照応する必要は無い」というご説明に納得しました。授業などで「私は明日学校に行くだろう」といった日本語をよく耳にしましたが、ヨーロッパ諸語の文法体系に無理やり日本語をあてはめようとした結果、変なことになってしまったのですね。
学校文法ということで質問したいのですが、日本語のいわゆる「古文」にも時制は存在しなかったのでしょうか。学校では、助動詞の「き」、「けり」が「過去」、「つ」、「ぬ」、「たり」が「完了」と教わり、授業や試験では、過去の助動詞は「…た」、「完了」の助動詞は「…てしまった」と訳さなければなりませんでした。
昔は「時制」を表わす動詞や形容詞の形態が存在したと考えられるのでしょうか。それとも、「古典文法」の説明にもやはり問題があるのでしょうか。
学校文法ということで質問したいのですが、日本語のいわゆる「古文」にも時制は存在しなかったのでしょうか。学校では、助動詞の「き」、「けり」が「過去」、「つ」、「ぬ」、「たり」が「完了」と教わり、授業や試験では、過去の助動詞は「…た」、「完了」の助動詞は「…てしまった」と訳さなければなりませんでした。
昔は「時制」を表わす動詞や形容詞の形態が存在したと考えられるのでしょうか。それとも、「古典文法」の説明にもやはり問題があるのでしょうか。
Re: 時制について
三郎さん
貴重な証言と面白いご質問、ありがとうございます。返信は、長くなりますので、今日の記事にして掲載します。そちらをご覧ください。
貴重な証言と面白いご質問、ありがとうございます。返信は、長くなりますので、今日の記事にして掲載します。そちらをご覧ください。
改めて、勉強になりました。
F爺様
記事、「私はシャルリー」は誤訳(続)の、
日本時間で、2021年8月10日午前6時43分に掲載されたF爺様のコメントの、
「# 英語を習い始めた子供に「日本語には過去形も未来形も無い。それは必要が無いからだ」という重要なことを「国語」の教師が教えていない。」
の部分を読んで、
「確かに、過去形や未来系という単語は、英語の勉強をした時に初めて聞いたもので、それより前には聞いたことがなかったな」と思い出し、こちらの記事を読みました。
記事の用例は、あまりにも日常的すぎるものばかりで、日本で生まれ育った者は誰もが、全く疑いもなく用いていると思います。
しかし、そこにこそ、日本語の優れた特徴が隠れているのですね。
今日もまたひとつ、学ぶ楽しさを得ることができました。ありがとうございます。
記事、「私はシャルリー」は誤訳(続)の、
日本時間で、2021年8月10日午前6時43分に掲載されたF爺様のコメントの、
「# 英語を習い始めた子供に「日本語には過去形も未来形も無い。それは必要が無いからだ」という重要なことを「国語」の教師が教えていない。」
の部分を読んで、
「確かに、過去形や未来系という単語は、英語の勉強をした時に初めて聞いたもので、それより前には聞いたことがなかったな」と思い出し、こちらの記事を読みました。
記事の用例は、あまりにも日常的すぎるものばかりで、日本で生まれ育った者は誰もが、全く疑いもなく用いていると思います。
しかし、そこにこそ、日本語の優れた特徴が隠れているのですね。
今日もまたひとつ、学ぶ楽しさを得ることができました。ありがとうございます。
Re: 改めて、勉強になりました。
「106」さん
>「確かに、過去形や未来[形]という単語は、英語の勉強をした時に初めて聞いたもので、それより前には聞いたことがなかったな」と思い出し、こちらの記事を読みました。
記事の用例は、あまりにも日常的すぎるものばかりで、日本で生まれ育った者は誰もが、全く疑いもなく用いていると思います。
しかし、そこにこそ、日本語の優れた特徴が隠れているのですね。
F爺は、
「日本語は曖昧だ」
などと何の根拠も無いのに日本語を貶(けな)す日本人の多さにいつも驚き呆れています。
日本語には優れた特徴がたくさんあります。その価値に気付く人が少しずつでも増えて行きますように。
>「確かに、過去形や未来[形]という単語は、英語の勉強をした時に初めて聞いたもので、それより前には聞いたことがなかったな」と思い出し、こちらの記事を読みました。
記事の用例は、あまりにも日常的すぎるものばかりで、日本で生まれ育った者は誰もが、全く疑いもなく用いていると思います。
しかし、そこにこそ、日本語の優れた特徴が隠れているのですね。
F爺は、
「
などと何の根拠も無いのに日本語を貶(けな)す日本人の多さにいつも驚き呆れています。
日本語には優れた特徴がたくさんあります。その価値に気付く人が少しずつでも増えて行きますように。