時制論・イ形容詞
- 2014/05/01
- 00:54
「良かった」「短かった」「近かった」など
悪い結果になりそうで心配していたのが取り越し苦労だったと分かって安堵した時、
「ああ、良かった」
と言います。
状況は、「過去のある時期に良かった」のではなく、「今(= 現在)良い」のです。
紐や糸、布、テープなどに特定の用途に間に合うだけの長さがあると思っていたのに試してみたら短すぎることが分かった時、
「あ、短かった」
「残念、短かった」
などと言います。その紐か糸か布かテープかは、今(= 現在)その用途に短すぎるのです。
遠い道だと思ってそれなりの覚悟をして歩き始めた道のりが思いのほか楽に歩けて拍子抜けした時に
「あれ、こんなに近かったっけ !?」
と言うことがあります。
「遠いか近いか」は、主観的な判断ですが、「こんなに近かったっけ」と言っている人にとって、その道は「今の感覚では近い」のです。「三日前の感覚で近かった」のではありません。
急いで駆け付けたのに間に合わなかったとき、無念を表明するのに
「遅かった !」
と言います。
到着は今(= 現在)です。到着が「もっと早ければ間に合ったはずの時刻に比べると遅いことが今(= 現在)分かった」のです。
同じ「遅かった」「近かった」などの形態が過去の状況の回想を表わすこともあります。
「先週の水曜日は、D君の到着が遅かったんだよね」
「二週間もトレッキングをして帰って来たら、昨日の山寺の石段、登ってみたら意外に近かったね」
第一の中間結論
「良かった」「短かった」「遅かった」などは、過去の状況の回想を表わすこともあり、自分にとって想定外だった現在の状況を表わすこともある形態です。
「暑い」「寒い」など
「F爺が餓鬼だった頃は、真夏の暑い時には夕涼みをするものだった」
「冷房が全戸に行き渡っている地域では、外が暑い時でも夕涼みをする人はいない」
「百年後、地球の温暖化がこのまま進んでいったら、耐えられないほど暑い時には、どうするんだろうね」
こういう文脈では、昔の(= 過去の)話でも、今の(= 現在の)話でも、百年後の(= 未来の)話でも、イ形容詞は形が変わりません。
第二の中間結論
「暑い」「寒い」などは、過去の文脈でも現在の文脈でも未来の文脈でも、同じ意味で用いることの出来る形態です。上の例では、過去を示すのは「F爺が餓鬼だった頃」という語句、未来を示すのは「百年後」という語句です。「暑い」という形態自体は、いかなる「時」をも示しません。
最終結論
存在動詞と同様、イ形容詞にも、「現在形」も「過去形」も「未来形」もありません。無くても不都合は起こりません。
予告
昨日の記事「時制論・存在動詞」をお読みになった方には簡単に理解できるものと楽観して、今日の記事「時制論・イ形容詞」は、簡略に済ませました。
この後、簡略な記事「時制論『だ』『です』『である』」と詳しい記事「時制論・瞬間動詞と持続動詞」を予定しています。
いずれ、結論は「日本語には時制というものは無い」ということです。読者の皆様からの反論や質問などをお待ちしております。
悪い結果になりそうで心配していたのが取り越し苦労だったと分かって安堵した時、
「ああ、良かった」
と言います。
状況は、「過去のある時期に良かった」のではなく、「今(= 現在)良い」のです。
紐や糸、布、テープなどに特定の用途に間に合うだけの長さがあると思っていたのに試してみたら短すぎることが分かった時、
「あ、短かった」
「残念、短かった」
などと言います。その紐か糸か布かテープかは、今(= 現在)その用途に短すぎるのです。
遠い道だと思ってそれなりの覚悟をして歩き始めた道のりが思いのほか楽に歩けて拍子抜けした時に
「あれ、こんなに近かったっけ !?」
と言うことがあります。
「遠いか近いか」は、主観的な判断ですが、「こんなに近かったっけ」と言っている人にとって、その道は「今の感覚では近い」のです。「三日前の感覚で近かった」のではありません。
急いで駆け付けたのに間に合わなかったとき、無念を表明するのに
「遅かった !」
と言います。
到着は今(= 現在)です。到着が「もっと早ければ間に合ったはずの時刻に比べると遅いことが今(= 現在)分かった」のです。
同じ「遅かった」「近かった」などの形態が過去の状況の回想を表わすこともあります。
「先週の水曜日は、D君の到着が遅かったんだよね」
「二週間もトレッキングをして帰って来たら、昨日の山寺の石段、登ってみたら意外に近かったね」
第一の中間結論
「良かった」「短かった」「遅かった」などは、過去の状況の回想を表わすこともあり、自分にとって想定外だった現在の状況を表わすこともある形態です。
「暑い」「寒い」など
「F爺が餓鬼だった頃は、真夏の暑い時には夕涼みをするものだった」
「冷房が全戸に行き渡っている地域では、外が暑い時でも夕涼みをする人はいない」
「百年後、地球の温暖化がこのまま進んでいったら、耐えられないほど暑い時には、どうするんだろうね」
こういう文脈では、昔の(= 過去の)話でも、今の(= 現在の)話でも、百年後の(= 未来の)話でも、イ形容詞は形が変わりません。
第二の中間結論
「暑い」「寒い」などは、過去の文脈でも現在の文脈でも未来の文脈でも、同じ意味で用いることの出来る形態です。上の例では、過去を示すのは「F爺が餓鬼だった頃」という語句、未来を示すのは「百年後」という語句です。「暑い」という形態自体は、いかなる「時」をも示しません。
最終結論
存在動詞と同様、イ形容詞にも、「現在形」も「過去形」も「未来形」もありません。無くても不都合は起こりません。
予告
昨日の記事「時制論・存在動詞」をお読みになった方には簡単に理解できるものと楽観して、今日の記事「時制論・イ形容詞」は、簡略に済ませました。
この後、簡略な記事「時制論『だ』『です』『である』」と詳しい記事「時制論・瞬間動詞と持続動詞」を予定しています。
いずれ、結論は「日本語には時制というものは無い」ということです。読者の皆様からの反論や質問などをお待ちしております。