詐称遍路の嘘と誤用(32)〈弘法大師から便りを貰った〉と思い上がる
- 2021/05/19
- 19:28
「昆虫の揺籃(ようらん)を拾った」という触れ込み
詐称遍路「黛まどか」は、駄本『奇跡の四国遍路』の163ページの1~2行目にこう書いています。
*****
山中で「落し文」を三つ拾った。一つは古のお遍路さんから、一つは遍路で供養した亡き人たちから、そして一つはお大師様からの文のように思えた。
*****
昆虫のオトシブミの揺籃を手に入れた(*)ことを上のように表現しているつもりらしいのですが、
〈駄本の読者で2017年6月7日付けの「黛まどか」のInstagramの記載と画像(**)を見ていない人〉
には、そのことを読み取る手立てはありません。下手で不誠実な書き方です。
(*)「黛まどか」は「拾った」と書いていますが、説得力はありません。猪も蝮(まむし)も見たことが無く、自然とは無縁の環境しか知らない過保護の50歳台の女が「自称・一人で山道を歩いて」、それまで見たことの無い昆虫の揺籃を自力で同定し草むらの中から拾い上げる可能性は、限りなくゼロに近いものです。99.99%超の確率で、「遍路道の女一人旅」という虚構をお膳立てした「支援グループ」の一員が頼まれて探し廻り、拾って来てやったのです。
「黛まどか」が『奇跡の四国遍路』にどれほどの嘘と妄想を書き立てているかをまだご存じない方は、
「詐称遍路の嘘と誤用I」
「詐称遍路の嘘と誤用II」
「詐称遍路の嘘と誤用III」
の三つの書庫に入れてある記事を何本かずつでもご覧ください。
(**) 当該のInstagramのリンクは、当ブログの記事〈「落し文」と「オトシブミ」〉に貼ってあります。ご興味のある方は、そちらの記事を是非ご覧ください。
「落し文」は「便所の落書き」のことなのに・・・
本来の「落し文」は、文書が全て毛筆だった時代に
【公然とは言えないことを文書にして屋内や路上に落しておいたもの】
です。
誰が落したのかは判りませんから、現代では、「便所の落書き」「匿名の罵詈(ばり)讒謗(ざんぼう)コメント」「ネット上の匿名掲示板」などが同じ役割を果たしています。
現代版の「落し文」は、誠実な人物の「内部告発」の場合もあり得ますが、殆どは卑劣な輩の「誹謗中傷」「逆恨みの攻撃」「意図的な虚報」などです。
いずれにせよ、無署名の文書ですから、少なくとも当初は、誰が書いたのかは判りません。勿論、宛先も書いてありません。
「お大師様」がそんな下卑たことをするか
生身の空海のことは時空の彼方で知り得ませんが、
【民間信仰の対象になっている弘法大師】
が、時空を超えて
「落し文」(=「便所の落書き」や「ネット匿名掲示板に書き込み」の類)という下卑たことをするはずはありません。
ましてお大師様が
〈詐称遍路などという下劣なものと特別に意思の疎通を図る〉
ことはあり得ません。遍路道を「一人で歩いた」と嘘を吐いた時点で「黛まどか」のほうが意思の疎通を不可能にしているのです。何も聞き届けては貰えません。
「黛まどか」は、頻繁に語義の取り違えを犯し、夥(おびただ)しいテニヲハの誤用をするくらい日本語が不自由ですから、「落し文」の正しい意味も知らないとしても、驚くことはありませんね。
詐称遍路には、お大師様の罰なら当たる
繰り返しますが、「黛まどか」は、「昆虫のオトシブミの揺籃を入手した」とInstagramに書いて
【特別な存在である特別な自分が「お大師様」他二名から特別に特別な便りを貰った】
と訪問者に思い込ませたがっていますが、
それは、身の程知らずの妄想に過ぎません。
F爺がそう断言する根拠は、簡単なことです。
# 一人で歩いたと嘘を吐き、
# ひたすら歩いたと嘘を吐き、
# 見ていない風景を見たかのように嘘を書き、
# 歩いていない山道を歩いたと嘘を吐き、
# 歩いて通っていないトンネルを〈歩いて通った〉と嘘を吐き、
# 「似非高知方言」を捏造し、
# スペイン語の単語の捏造語源を拡散し、
# 自分が泊まったわけでもない「半分ほどの遍路宿」を不潔で悲惨だと嘘を書いて貶め、
# 他のお遍路さんが「先を急ぐ」のを非難しながら自分は〈走った〉と嘘を吐いて豪語し、
# Instagramの記載とことごとに矛盾する捏造話を新聞に書き、
# 同じ捏造話をさらに新書本にも書き、
# 見ていない猪や蝮を「見た」と嘘を吐き、
# 一週間も仕事のために東京に戻っていたのを「とんぼ返り」したと嘘を吐き、
# 「取材ノート」を元に「作り物の遍路日記」を新聞連載した後で駄本に仕上げるために四国に渡ったくせに「キャリアも肩書きも何もかも手放して」と嘘を吐き、
# 存在しない登場人物を次から次へと捏造し、
# 何から何まで嘘を寄せ集めたゴミの山を日々紡ぎ続ける「黛まどか」には、
お大師様に罰せられこそすれ、
誰に対しても、「猿芝居でしかない祈りまがい」や「偽って已まない醜い心」が通うことはあり得ず、
まして弘法大師の覚えがめでたくなることなどはあり得ないのです。
どんな嘘でも平気で吐くくせに、そして「落し文」の意味さえも知らずに、
【自分は落し文を弘法大師からもらうほど特別な存在だ】
と支離滅裂なことを思い込もうとする低級な女に、罰当たりな女に、救いはありません。
罰当たり女の多数の共犯者どもにも、勿論、救いはありません。
尤も・・・心の片隅ででも因果応報を信じていたら、これほど見え見えでバレバレの大嘘を本に仕上げるようなことは出来ません。詐称遍路「黛まどか」の猿芝居一座の面々は、弘法大師信仰の欠片(かけら)も持ち合わせていないし、勿論、佛教徒でもあり得ません。論理とも倫理とも無縁の一味は、「救い」などが無くても平気の平左で、今の生き様(ざま)を続けることでしょう。
詐称遍路「黛まどか」は、駄本『奇跡の四国遍路』の163ページの1~2行目にこう書いています。
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昆虫のオトシブミの揺籃を手に入れた(*)ことを上のように表現しているつもりらしいのですが、
〈駄本の読者で2017年6月7日付けの「黛まどか」のInstagramの記載と画像(**)を見ていない人〉
には、そのことを読み取る手立てはありません。下手で不誠実な書き方です。
(*)「黛まどか」は「
「黛まどか」が『奇跡の四国遍路』にどれほどの嘘と妄想を書き立てているかをまだご存じない方は、
「詐称遍路の嘘と誤用I」
「詐称遍路の嘘と誤用II」
「詐称遍路の嘘と誤用III」
の三つの書庫に入れてある記事を何本かずつでもご覧ください。
(**) 当該のInstagramのリンクは、当ブログの記事〈「落し文」と「オトシブミ」〉に貼ってあります。ご興味のある方は、そちらの記事を是非ご覧ください。
「落し文」は「便所の落書き」のことなのに・・・
本来の「落し文」は、文書が全て毛筆だった時代に
【公然とは言えないことを文書にして屋内や路上に落しておいたもの】
です。
誰が落したのかは判りませんから、現代では、「便所の落書き」「匿名の罵詈(ばり)讒謗(ざんぼう)コメント」「ネット上の匿名掲示板」などが同じ役割を果たしています。
現代版の「落し文」は、誠実な人物の「内部告発」の場合もあり得ますが、殆どは卑劣な輩の「誹謗中傷」「逆恨みの攻撃」「意図的な虚報」などです。
いずれにせよ、無署名の文書ですから、少なくとも当初は、誰が書いたのかは判りません。勿論、宛先も書いてありません。
「お大師様」がそんな下卑たことをするか
生身の空海のことは時空の彼方で知り得ませんが、
【民間信仰の対象になっている弘法大師】
が、時空を超えて
「落し文」(=「便所の落書き」や「ネット匿名掲示板に書き込み」の類)という下卑たことをするはずはありません。
ましてお大師様が
〈詐称遍路などという下劣なものと特別に意思の疎通を図る〉
ことはあり得ません。遍路道を「
「黛まどか」は、頻繁に語義の取り違えを犯し、夥(おびただ)しいテニヲハの誤用をするくらい日本語が不自由ですから、「落し文」の正しい意味も知らないとしても、驚くことはありませんね。
詐称遍路には、お大師様の罰なら当たる
繰り返しますが、「黛まどか」は、「昆虫のオトシブミの揺籃を入手した」とInstagramに書いて
【
と訪問者に思い込ませたがっていますが、
それは、身の程知らずの妄想に過ぎません。
F爺がそう断言する根拠は、簡単なことです。
# 一人で歩いたと嘘を吐き、
# ひたすら歩いたと嘘を吐き、
# 見ていない風景を見たかのように嘘を書き、
# 歩いていない山道を歩いたと嘘を吐き、
# 歩いて通っていないトンネルを〈
# 「似非高知方言」を捏造し、
# スペイン語の単語の捏造語源を拡散し、
# 自分が泊まったわけでもない「半分ほどの遍路宿」を不潔で悲惨だと嘘を書いて貶め、
# 他のお遍路さんが「先を急ぐ」のを非難しながら自分は〈
# Instagramの記載とことごとに矛盾する捏造話を新聞に書き、
# 同じ捏造話をさらに新書本にも書き、
# 見ていない猪や蝮を「見た」と嘘を吐き、
# 一週間も仕事のために東京に戻っていたのを「
# 「取材ノート」を元に「作り物の遍路日記」を新聞連載した後で駄本に仕上げるために四国に渡ったくせに「
# 存在しない登場人物を次から次へと捏造し、
# 何から何まで嘘を寄せ集めたゴミの山を日々紡ぎ続ける「黛まどか」には、
お大師様に罰せられこそすれ、
誰に対しても、「猿芝居でしかない祈りまがい」や「偽って已まない醜い心」が通うことはあり得ず、
まして
どんな嘘でも平気で吐くくせに、そして「落し文」の意味さえも知らずに、
【自分は
と支離滅裂なことを思い込もうとする低級な女に、罰当たりな女に、救いはありません。
罰当たり女の多数の共犯者どもにも、勿論、救いはありません。
尤も・・・心の片隅ででも因果応報を信じていたら、これほど見え見えでバレバレの大嘘を本に仕上げるようなことは出来ません。詐称遍路「黛まどか」の猿芝居一座の面々は、弘法大師信仰の欠片(かけら)も持ち合わせていないし、勿論、佛教徒でもあり得ません。論理とも倫理とも無縁の一味は、「救い」などが無くても平気の平左で、今の生き様(ざま)を続けることでしょう。