妄想の自分語りに陶酔するコメント投稿者(7)「自称・プロの楽器奏者」(前)
- 2021/07/05
- 20:04
この記事とその続編で取り上げる「妄想の自分語りに陶酔するコメント投稿者」は、最後のコメントで
「テレビ局、レコーデイングスタジオ、コンサート関連、等」で
「楽器の演奏をする仕事」
をしていたと称していました。楽器名を書かないのが極めて不自然です。
本当のことだとしたら、そしてコメントの内容が全て誠実だとしたら、楽器の名を明らかにし、実名か芸名を名乗って投稿すれば宣伝になるのです。匿名の蓑(みの)に隠れるやり方は、率直に言って、浅はかです。
当ブログへの出現時期は、2017年2月28日~3月23日で、「michiko.ky」の出現時期と重なっています。使用していた偽名は、「提琴」でした。
《「手風琴」(*)でも提(さ)げていたのかな・・・》
(*) 若い日本語人と日本語習得途上の人のための注。「手風琴(てふうきん)」は、楽器の名前です。小学生の頃のF坊やが読んだ本には普通に出て来る言葉でした。ドイツ語でZiehharmonika、フランス語でaccordéon、英語でaccordionと言います。カタカナ語の名前を当ててみてください。
最初の投稿
「提琴」の最初の投稿は、当ブログの記事〈〽一かけ二かけて三かけて〉に届きました。
コメントのタイトルは、「歌ったことがあります」でした。本文を引用します。但し、腑に落ちない点を強調するための下線と太字は、F爺が勝手に施しました。
*****
小島先生
小さい頃に歌ってもらった記憶があります。
母は東京の出身です。
私は東京で生まれて、小学5年まで、小樽と門司に住んでいました。そのどこかで、母か、一緒に住んでいたお手伝いさんに教えてもらったのです。
記憶も曖昧ですが、違っているところを書きます。
「明治10年その年に、切腹なされた父上のお墓参りに参ります」「お墓の前では手をあわせなんまいだぶつと拝みます。お墓の後ろで幽霊がふわりふわりと、ジャンケンポン」とジャンケンをしたように記憶しています。
*****
のっけから
「小さい頃に歌ってもらった記憶があります」
と書いています。
この歌は、子供の遊び歌です。憶えているとすれば「小さい時に誰かに歌ってもらった」に決まっていますから、わざわざそのことを書く意味は無いのです。大人になってから誰かが歌っているのを聞いて覚えたのなら特筆に値(あたい)しますが。
続いて、訊かれもしないのに
「小学5年まで、小樽と門司に住んでいました」
と書いています。
北海道の小樽と九州の門司に同時に住むことは不可能です。まともな日本語感覚のある人だったら
「□歳から□歳まで小樽に」「その後、小学5年まで門司に」または、
「□歳から□歳まで門司に」「その後、小学5年まで小樽に」
と書くものです。本当のことだとすれば、ですが。
「母か、一緒に住んでいたお手伝いさんに教えてもらった」
とありますが、F爺には信じられません。誰か一人の大人だけに教えてもらったのなら、覚えているはずです。二人の大人に代わる代わる、または一緒に、教えてもらった場合も、覚えているはずです。
子供同士の遊びの中で習い覚えたのなら「特に誰に教えてもらったのかは憶えていない」のが普通です。
その「一緒に住んでいたお手伝いさん」は、何人いたのでしょう。住込みのお手伝いさんなら同じ人が東京→小樽→門司と雇用主と行動を共にすることもあり得ますが、三箇所で別々の人を雇った可能性もあります。また・・・投稿者が自分の生活水準を実際以上に高く誇示してみせる目的で創作した可能性も大いにあります。
それにしても、任地がそんな風に変わる職業って、どんなものがあるのでしょうか。親御さんは、何をしていた人なのでしょうか。
そして、「記憶も曖昧」というのが本当なら、F爺の紹介した歌詞と「違っているところ」をこれだけ長く詳しく書くというのは解(げ)せません。信憑性がありません。
〈F爺を騙そうとして、ウェブ検索で見つけた歌詞を少しだけ変えて書いたのではないか〉
と疑われて当然です。
「ジャンケンをしたように記憶しています」
という書き方が、また、不自然です。どうして単純に
「じゃんけんをしました」
と書かないのでしょう。飽くまで断言を避ける態度は、極めて不審です。本当におぼろげな記憶しかないのだったら、コメントを投稿すること自体が無意味なのです。
何年も何年もネット・ゴキブリの「騙す目的の投稿」攻撃を受けている者の耳には、
《鵜呑みにしたらお前は馬鹿だぞ》
とニタニタ笑いながら繰り返し宣言しているように聞こえました。
小樽や門司に本当に住んだことがあるのだろうかとも疑わせます。書く意味の無いことですから。
補足情報
〈〽一かけ二かけて三かけて〉と同じ旋律の歌〈〽一番はじめは一の宮〉を紹介した記事のコメント欄には、多重偽名ネット・ゴキブリの「michiko.ky」仮面が登場しています。
当時は認識していませんでしたが、
「michiko.ky」=「寝言世」
であることの判明している今では、
【同一個体が同じ時期にいくつもの仮面を使い分けていたのだろう】
と思います。
二通目
同じ記事に二通目も届きました。
*****
小島先生
小さい頃の記憶を聞いて下さってありがとうございます。
旋律ですが、
お墓の後ろで幽霊が・・・
からを書かせていただきます。
こういうの初めてです。
ドドドレ/ミミミレ/ミレドド/ラー
ドドラド/レドラソ/ドドドー/
のように思います。
この歌は、振りと共に覚えているのです。
*****
不審な点がさらに六つも出て来ました。
[1] 2017年にもなると、F爺宛てのコメントでの「させていただきます」の誤用には、嫌がらせのためにわざとやっているという嫌疑が濃厚に掛かります。
[2] この時点では「提琴」は、まだ〈自分は、優れた楽器奏者だ〉とは書いていませんでした。そのためすぐには気付かなかったのですが、一切戸惑いも反論する様子も見せずに移動ド唱法を採用した事実が非常に奇妙です。
[3]「提琴」の書いた旋律は、陽旋法から長調のヨナ抜き音階へと「あり得ない旋法転換」をしています。F爺がこれまでに観察した限りでは、民謡にも、わらべうたにも、自然発生的には決して起らない現象です。陽旋法と長調のヨナ抜き音階の区別の付かない旋法感覚の欠如した非音楽人の捏造ならあり得ます。
[4]「のように思います」と、またしても不自然極まりないやり方で、断言を回避しています。
《わざとやっているのだ。逃げ道を作っているのだ》
と確信させます。
[5]「振りと共に覚えている」ほどの歌が「記憶も曖昧」などということがあるのでしょうか。
[6] 歌詞の拍数と音符の数が合っていません。楽譜の良く読めない人なら犯しても不思議は無い間違いですが、「楽器の演奏をする仕事」の人がこんな杜撰(ずさん)なやり方をするとは、F爺には思いも寄りませんでした。
三通目
さらに三通目も同じ記事に届きました。
*****
小島先生、
「橋の欄干に」の「に」は私の旋律には存在していません[ママ]でした。お伝えし忘れてすみませんでした。
その部分の旋律は、
「ドドドレ/ミミミレ/ミレドド/ラー
ドドラド/レドラー/ソソソラ/ソー」です。
おかげさまで、小さい頃の想い出を懐かしむ[ママ]ことができました。
*****
「私の覚えている旋律」ではなく、「私の旋律」だそうです。
F爺は、反射的に
《「私の捏造した旋律」って言いたいんだな》
と思いました。
そして「に」は、「歌詞」の一部です。「旋律」の一部ではありません。「音楽の専門家でない人」なら目を瞑ってやって当然の微笑ましい取り違えなのですが、「楽器の演奏をする仕事」の人が犯すはずの無い間違いです。
それに、「提琴」の書き記した旋律は、あり得ない旋法転換という決定的な瑕疵が無かったとしても、F爺が東京で採譜した旋律とはあちこち異なるのです。しかも、補足部分にも、音符の数と歌詞の拍数の噛み合わない所が新たに三箇所もあります。
しかし、ここまでのところ、「提琴」は、罵詈雑言は弄していません。しばらくの間は何も言わずに泳がせようと決めました。
後篇に続きます。
「テレビ局、レコーデイングスタジオ、コンサート関連、等」で
「楽器の演奏をする仕事」
をしていたと称していました。楽器名を書かないのが極めて不自然です。
本当のことだとしたら、そしてコメントの内容が全て誠実だとしたら、楽器の名を明らかにし、実名か芸名を名乗って投稿すれば宣伝になるのです。匿名の蓑(みの)に隠れるやり方は、率直に言って、浅はかです。
当ブログへの出現時期は、2017年2月28日~3月23日で、「michiko.ky」の出現時期と重なっています。使用していた偽名は、「提琴」でした。
《「手風琴」(*)でも提(さ)げていたのかな・・・》
(*) 若い日本語人と日本語習得途上の人のための注。「手風琴(てふうきん)」は、楽器の名前です。小学生の頃のF坊やが読んだ本には普通に出て来る言葉でした。ドイツ語でZiehharmonika、フランス語でaccordéon、英語でaccordionと言います。カタカナ語の名前を当ててみてください。
最初の投稿
「提琴」の最初の投稿は、当ブログの記事〈〽一かけ二かけて三かけて〉に届きました。
コメントのタイトルは、「歌ったことがあります」でした。本文を引用します。但し、腑に落ちない点を強調するための下線と太字は、F爺が勝手に施しました。
*****
小島先生
小さい頃に歌ってもらった記憶があります。
母は東京の出身です。
私は東京で生まれて、小学5年まで、小樽と門司に住んでいました。そのどこかで、母か、一緒に住んでいたお手伝いさんに教えてもらったのです。
記憶も曖昧ですが、違っているところを書きます。
「明治10年その年に、切腹なされた父上のお墓参りに参ります」「お墓の前では手をあわせなんまいだぶつと拝みます。お墓の後ろで幽霊がふわりふわりと、ジャンケンポン」とジャンケンをしたように記憶しています。
*****
のっけから
「小さい頃に歌ってもらった記憶があります」
と書いています。
この歌は、子供の遊び歌です。憶えているとすれば「小さい時に誰かに歌ってもらった」に決まっていますから、わざわざそのことを書く意味は無いのです。大人になってから誰かが歌っているのを聞いて覚えたのなら特筆に値(あたい)しますが。
続いて、訊かれもしないのに
「小学5年まで、小樽と門司に住んでいました」
と書いています。
北海道の小樽と九州の門司に同時に住むことは不可能です。まともな日本語感覚のある人だったら
「□歳から□歳まで小樽に」「その後、小学5年まで門司に」または、
「□歳から□歳まで門司に」「その後、小学5年まで小樽に」
と書くものです。本当のことだとすれば、ですが。
「母か、一緒に住んでいたお手伝いさんに教えてもらった」
とありますが、F爺には信じられません。誰か一人の大人だけに教えてもらったのなら、覚えているはずです。二人の大人に代わる代わる、または一緒に、教えてもらった場合も、覚えているはずです。
子供同士の遊びの中で習い覚えたのなら「特に誰に教えてもらったのかは憶えていない」のが普通です。
その「一緒に住んでいたお手伝いさん」は、何人いたのでしょう。住込みのお手伝いさんなら同じ人が東京→小樽→門司と雇用主と行動を共にすることもあり得ますが、三箇所で別々の人を雇った可能性もあります。また・・・投稿者が自分の生活水準を実際以上に高く誇示してみせる目的で創作した可能性も大いにあります。
それにしても、任地がそんな風に変わる職業って、どんなものがあるのでしょうか。親御さんは、何をしていた人なのでしょうか。
そして、「記憶も曖昧」というのが本当なら、F爺の紹介した歌詞と「違っているところ」をこれだけ長く詳しく書くというのは解(げ)せません。信憑性がありません。
〈F爺を騙そうとして、ウェブ検索で見つけた歌詞を少しだけ変えて書いたのではないか〉
と疑われて当然です。
「ジャンケンをしたように記憶しています」
という書き方が、また、不自然です。どうして単純に
「じゃんけんをしました」
と書かないのでしょう。飽くまで断言を避ける態度は、極めて不審です。本当におぼろげな記憶しかないのだったら、コメントを投稿すること自体が無意味なのです。
何年も何年もネット・ゴキブリの「騙す目的の投稿」攻撃を受けている者の耳には、
《鵜呑みにしたらお前は馬鹿だぞ》
とニタニタ笑いながら繰り返し宣言しているように聞こえました。
小樽や門司に本当に住んだことがあるのだろうかとも疑わせます。書く意味の無いことですから。
補足情報
〈〽一かけ二かけて三かけて〉と同じ旋律の歌〈〽一番はじめは一の宮〉を紹介した記事のコメント欄には、多重偽名ネット・ゴキブリの「michiko.ky」仮面が登場しています。
当時は認識していませんでしたが、
「michiko.ky」=「寝言世」
であることの判明している今では、
【同一個体が同じ時期にいくつもの仮面を使い分けていたのだろう】
と思います。
二通目
同じ記事に二通目も届きました。
*****
小島先生
小さい頃の記憶を聞いて下さってありがとうございます。
旋律ですが、
お墓の後ろで幽霊が・・・
からを
こういうの初めてです。
ドドドレ/ミミミレ/ミレドド/ラー
ドドラド/レドラソ/ドドドー/
のように思います。
この歌は、振りと共に覚えているのです。
*****
不審な点がさらに六つも出て来ました。
[1] 2017年にもなると、F爺宛てのコメントでの「させていただきます」の誤用には、嫌がらせのためにわざとやっているという嫌疑が濃厚に掛かります。
[2] この時点では「提琴」は、まだ〈自分は、優れた楽器奏者だ〉とは書いていませんでした。そのためすぐには気付かなかったのですが、一切戸惑いも反論する様子も見せずに移動ド唱法を採用した事実が非常に奇妙です。
[3]「提琴」の書いた旋律は、陽旋法から長調のヨナ抜き音階へと「あり得ない旋法転換」をしています。F爺がこれまでに観察した限りでは、民謡にも、わらべうたにも、自然発生的には決して起らない現象です。陽旋法と長調のヨナ抜き音階の区別の付かない旋法感覚の欠如した非音楽人の捏造ならあり得ます。
[4]「のように思います」と、またしても不自然極まりないやり方で、断言を回避しています。
《わざとやっているのだ。逃げ道を作っているのだ》
と確信させます。
[5]「振りと共に覚えている」ほどの歌が「記憶も曖昧」などということがあるのでしょうか。
[6] 歌詞の拍数と音符の数が合っていません。楽譜の良く読めない人なら犯しても不思議は無い間違いですが、「楽器の演奏をする仕事」の人がこんな杜撰(ずさん)なやり方をするとは、F爺には思いも寄りませんでした。
三通目
さらに三通目も同じ記事に届きました。
*****
小島先生、
「橋の欄干に」の「に」は私の旋律には存在していません[ママ]でした。お伝えし忘れてすみませんでした。
その部分の旋律は、
「ドドドレ/ミミミレ/ミレドド/ラー
ドドラド/レドラー/ソソソラ/ソー」です。
おかげさまで、小さい頃の想い出を懐かしむ[ママ]ことができました。
*****
「私の覚えている旋律」ではなく、「私の旋律」だそうです。
F爺は、反射的に
《「私の捏造した旋律」って言いたいんだな》
と思いました。
そして「に」は、「歌詞」の一部です。「旋律」の一部ではありません。「音楽の専門家でない人」なら目を瞑ってやって当然の微笑ましい取り違えなのですが、「楽器の演奏をする仕事」の人が犯すはずの無い間違いです。
それに、「提琴」の書き記した旋律は、あり得ない旋法転換という決定的な瑕疵が無かったとしても、F爺が東京で採譜した旋律とはあちこち異なるのです。しかも、補足部分にも、音符の数と歌詞の拍数の噛み合わない所が新たに三箇所もあります。
しかし、ここまでのところ、「提琴」は、罵詈雑言は弄していません。しばらくの間は何も言わずに泳がせようと決めました。
後篇に続きます。
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