鈴木良照さん
証拠の重要性について
> この無理難題な「証拠」要求というのが今の日本社会で蔓延っており、二言目には「証拠」だの「エビデンス」だの「ソース(source)」だのと言ってくるのです。証明できるような性質ではないものに対しても、です。また、「証拠」として提出したものを解読できる能力がないために、「証拠」と認めないケースもあります。
これは大変重要な指摘です。科学的手法(自然科学に限らず)を取る上では、自分の主張の「論理」や「(状況)証拠=その仮説を補強するための事実の積み重ね」、引用する場合は「引用元・出典(ソース)」を明示するのが基本的な態度です。
本質的に重要なのは「論理」であり、「その論理を構築する材料となる事実の積み重ね」であると思います。
例えば、日本の国会では政府の新型コロナウイルス対策方針に対する質問として「そのやり方にエビデンスはあるんですか?」と言った趣旨の文言が投げつけられることが多々あります。この場合のエビデンスという言葉には「何らかの実験等を行った結果として、その対策の有効性を証明するだけの結果がありますか?」という意味合いが含まれています。
新型コロナウイルスに対する対策は人類が初めて直面する事態ですから、当然ですが完全なエビデンスは有りません。ただ、「専門家が現在ある知見や合理的推測(仮説)を出して話し合った結果に、政治的判断を加えて決めた対策方針」が存在するだけです。ですから、議論するのであれば「政府の対策方針を決めた論理と、その論理を構築する材料はどのようなものでしたか」と質問するのが正しいのです。明らかに答えが無いのをわかっていて聞いてるわけですから、これは「質問」ではありません。よって、鈴木は「~と言った趣旨の文言が投げつけられる」と表現しました。
要するにこれは問答では無く、一方的に返答に困るような言葉を投げつけているだけです。国権の最高機関たる国会において行われている「議論」と称するものの実態がこうですから、国民が議論についておかしな理解をするのも致し方ない気もしてきます。(もちろん、おかしな議論をすることを許容する意味で言っているのではありません)
一方で、「断片的な情報」であったり「思い込み」であったり、「イメージ(自己の中にある対象物への印象・先入観)」に引きずられたりして、有効な根拠を示さずに主張をする方が沢山います。例えば、西村博之とラテン語さんのTwitter上での論争の中で西村博之が主張した、
「証拠を示してください」「エビデンスを示してください」「ソースを提示してください」というよりも、「そのように主張される根拠はなんですか?どういった材料(事実)をもとに、どのような論理でその主張にたどり着いたのですか?」という聞き方をするのが望ましいと私は思います。
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