コメント
本質は個人の生命倫理では無いと思います
慈恵病院の「子捨て容認出産システム」(賛否はあるでしょうが、結果そうなるので私はこのように表現します)の是非についての議論は、それぞれ発言している人の宗教的な立場を明確に表明しない限り「噛み合わない」ままでずっと空転が続いてしまうように感じています。
鈴木自身は、自分が心から仏教に帰依しているという自覚はありませんが、家庭としては浄土宗の墓をもっており、少なくとも自分はその墓を守り、自分も死ねばその墓に入れるように遺族にお願いする程度の仏教徒です。
最初の頃にコメントで、慈恵病院の「子捨て容認出産システム」は同病院の宗教的理念と深くかかわっていると少しだけ触れました。この件の本質は宗教感にあるのに、マスメディアはその部分には意図的に触れずに本件を報じており、それがゆえに議論すると必ず「それぞれの個人の生命倫理感」をぶつけ合う形になっていると思います。
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池端祐一朗 カトリックの教説から見る中絶問題──中絶に関わる諸事項の関連 立命館大学生存学研究所
https://www.ritsumei-arsvi.org/publication/center_report/publication-center10/publication-68/
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上の論文中で、池端氏はカトリックは「①妊娠中絶を否定する」教えがあること、そして、その前提として「②子供には家庭が与えられるべき」という教えがある事を指摘されています。さらに、慈恵病院の「子捨て容認出産システム」は①を達成することを目的とする多ゆえに、②を積極的に否定してしまっているという事を指摘されています。
キリスト教の土壌を持つ国では、血族でも姻族でもない子どもを対象とする「他児養子」が一般的に行われており、これは「他児養子」が全体の1%にしかならない日本とは大きく事情が異なっています。
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森口千晶 児童福祉としての養子制度を考える「成年養子大国・日本」と「子ども養子大国・アメリカ」の変遷を追う 一橋大学
http://www.hit-u.ac.jp/hq-mag/chat_in_the_den/220_20180306/
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池端論文にもありましたが、キリスト教国では「家庭」を重視します。その「家庭」は血縁であることが望ましいが、そうでは無かったとしても温かいものであればよいという考え方が日本よりも浸透していると感じます。一方で、上の森口論文にあるとおり、日本では血縁を重視しており養子と言えば「家名を継ぐため」の成年養子が主流です。
キリスト教国においては、①と②を並立させるための理屈として「養子があるからいいじゃないか」と言えるし、養子を受け入れてもらえる可能性も高いのでしょう。一方で日本では①も②も考え方としては非主流派です。つまり、命を守るために「子捨て容認出産システム」を導入しても、守られた命の「行き先」が無いのです。この状態で「命を守るべきです」「生まれた子の幸せを祈らずにはいられません」という主張をするのであれば、そのように主張する以上は他児養子を受け入れるべきです。なぜなら日本では他児養子はほとんど存在してないわけですから、「どこかの誰かが引き受けてくれるだろう」という希望的観測で「子捨て容認出産システム」を肯定するのは極めて無責任だからです。
鈴木は、カトリックの最高権威である教皇庁は「あるべき一つの理想像」を提示していて、遠い将来には全体がそうなるように目標を掲げているのだと理解しています。しかしながら、現実の世界は理想像からはかけ離れた所にあり、望まれない形での妊娠が相当数発生してしまっているのが実態です。そして、教皇庁の主張はカトリック社会の矛盾すら解決できてはいませんが、それでもカトリック文化が浸透している前提でなんとか宗教的整合性を保とうとするための方針を打ち出しているように思えます。
カトリック教徒がほとんど存在しない日本で、その教義に基づいて、その理念の「一部だけを」実践するために多くの議論や法的な問題も無視して突き進もうとする慈恵病院のやり方には疑問を感じざるを得ません。
1500年代にキリスト教が伝導して以来、キリスト教国に一時的に占領されるという歴史を経てなお、日本にはキリスト教は根付かないのです。信教は自由ですが、現実問題として我が国はキリスト教を500年にわたり拒絶し続けてきており、それが良いか悪いかは別として近い将来においてその考え方や文化が主流になることはあり得ないと思います。
それに逆らって宗教的信念を貫きたいがために、困っている妊婦を利用するのはやめてもらいたいと強く思います。
この場で慈恵病院の活動を肯定されている方が、ある種の宗教的信念に基づいてそう主張しているのか、あるいはそれとは無関係に個人の善意としてそう思っているのかは少し気になる所です。
※余談
吉田茂元総理は世間一般ではクリスチャンとして知られ、その葬儀もキリスト教カトリックの「東京カテドラル教会」で行われました。(国葬は日本武道館) 一方で「叡光院殿徹誉明徳素匯大居士」の戒名を受け、その墓は仏教式でした。しかし、その墓は青山霊園にある十字架をかたどった墓が多くある一角におかれ、孫である麻生元総理が参拝する写真なども「撮りようによっては十字架に祈ってるようにも見える」ものがありました。
ところが、最近所用で横浜の久保山墓地に行ったところ吉田茂氏の墓がありとてもびっくりしました。なぜなら、私はその時まで「吉田茂はクリスチャンで青山墓地に葬られた」という知識があったからです。調べてみると、2011年に横浜の久保山墓地に改葬となっておりました。周囲はほぼ仏教式の墓しかない一般的な日本の墓地でした。
これを見て、私は「ああ、吉田茂がクリスチャンだと言っていたのは、占領軍を騙し、信用させるための方便だったんだな」と強く思った次第です。日本人のキリスト教に対する態度が良く表れている一つの事例と思い紹介させていただきました。
鈴木自身は、自分が心から仏教に帰依しているという自覚はありませんが、家庭としては浄土宗の墓をもっており、少なくとも自分はその墓を守り、自分も死ねばその墓に入れるように遺族にお願いする程度の仏教徒です。
最初の頃にコメントで、慈恵病院の「子捨て容認出産システム」は同病院の宗教的理念と深くかかわっていると少しだけ触れました。この件の本質は宗教感にあるのに、マスメディアはその部分には意図的に触れずに本件を報じており、それがゆえに議論すると必ず「それぞれの個人の生命倫理感」をぶつけ合う形になっていると思います。
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池端祐一朗 カトリックの教説から見る中絶問題──中絶に関わる諸事項の関連 立命館大学生存学研究所
https://www.ritsumei-arsvi.org/publication/center_report/publication-center10/publication-68/
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上の論文中で、池端氏はカトリックは「①妊娠中絶を否定する」教えがあること、そして、その前提として「②子供には家庭が与えられるべき」という教えがある事を指摘されています。さらに、慈恵病院の「子捨て容認出産システム」は①を達成することを目的とする多ゆえに、②を積極的に否定してしまっているという事を指摘されています。
キリスト教の土壌を持つ国では、血族でも姻族でもない子どもを対象とする「他児養子」が一般的に行われており、これは「他児養子」が全体の1%にしかならない日本とは大きく事情が異なっています。
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森口千晶 児童福祉としての養子制度を考える「成年養子大国・日本」と「子ども養子大国・アメリカ」の変遷を追う 一橋大学
http://www.hit-u.ac.jp/hq-mag/chat_in_the_den/220_20180306/
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池端論文にもありましたが、キリスト教国では「家庭」を重視します。その「家庭」は血縁であることが望ましいが、そうでは無かったとしても温かいものであればよいという考え方が日本よりも浸透していると感じます。一方で、上の森口論文にあるとおり、日本では血縁を重視しており養子と言えば「家名を継ぐため」の成年養子が主流です。
キリスト教国においては、①と②を並立させるための理屈として「養子があるからいいじゃないか」と言えるし、養子を受け入れてもらえる可能性も高いのでしょう。一方で日本では①も②も考え方としては非主流派です。つまり、命を守るために「子捨て容認出産システム」を導入しても、守られた命の「行き先」が無いのです。この状態で「命を守るべきです」「生まれた子の幸せを祈らずにはいられません」という主張をするのであれば、そのように主張する以上は他児養子を受け入れるべきです。なぜなら日本では他児養子はほとんど存在してないわけですから、「どこかの誰かが引き受けてくれるだろう」という希望的観測で「子捨て容認出産システム」を肯定するのは極めて無責任だからです。
鈴木は、カトリックの最高権威である教皇庁は「あるべき一つの理想像」を提示していて、遠い将来には全体がそうなるように目標を掲げているのだと理解しています。しかしながら、現実の世界は理想像からはかけ離れた所にあり、望まれない形での妊娠が相当数発生してしまっているのが実態です。そして、教皇庁の主張はカトリック社会の矛盾すら解決できてはいませんが、それでもカトリック文化が浸透している前提でなんとか宗教的整合性を保とうとするための方針を打ち出しているように思えます。
カトリック教徒がほとんど存在しない日本で、その教義に基づいて、その理念の「一部だけを」実践するために多くの議論や法的な問題も無視して突き進もうとする慈恵病院のやり方には疑問を感じざるを得ません。
1500年代にキリスト教が伝導して以来、キリスト教国に一時的に占領されるという歴史を経てなお、日本にはキリスト教は根付かないのです。信教は自由ですが、現実問題として我が国はキリスト教を500年にわたり拒絶し続けてきており、それが良いか悪いかは別として近い将来においてその考え方や文化が主流になることはあり得ないと思います。
それに逆らって宗教的信念を貫きたいがために、困っている妊婦を利用するのはやめてもらいたいと強く思います。
この場で慈恵病院の活動を肯定されている方が、ある種の宗教的信念に基づいてそう主張しているのか、あるいはそれとは無関係に個人の善意としてそう思っているのかは少し気になる所です。
※余談
吉田茂元総理は世間一般ではクリスチャンとして知られ、その葬儀もキリスト教カトリックの「東京カテドラル教会」で行われました。(国葬は日本武道館) 一方で「叡光院殿徹誉明徳素匯大居士」の戒名を受け、その墓は仏教式でした。しかし、その墓は青山霊園にある十字架をかたどった墓が多くある一角におかれ、孫である麻生元総理が参拝する写真なども「撮りようによっては十字架に祈ってるようにも見える」ものがありました。
ところが、最近所用で横浜の久保山墓地に行ったところ吉田茂氏の墓がありとてもびっくりしました。なぜなら、私はその時まで「吉田茂はクリスチャンで青山墓地に葬られた」という知識があったからです。調べてみると、2011年に横浜の久保山墓地に改葬となっておりました。周囲はほぼ仏教式の墓しかない一般的な日本の墓地でした。
これを見て、私は「ああ、吉田茂がクリスチャンだと言っていたのは、占領軍を騙し、信用させるための方便だったんだな」と強く思った次第です。日本人のキリスト教に対する態度が良く表れている一つの事例と思い紹介させていただきました。
Re: 本質は個人の生命倫理では無いと思います
鈴木良照さん
>カトリック教徒がほとんど存在しない日本で、その教義に基づいて、その理念の「一部だけを」実践するために多くの議論や法的な問題も無視して突き進もうとする慈恵病院のやり方には疑問を感じざるを得ません。
F爺も、そう思います。
>日本では他児養子はほとんど存在してないわけですから、「どこかの誰かが引き受けてくれるだろう」という希望的観測で「子捨て容認出産システム」を肯定するのは極めて無責任
その自覚が慈恵病院には欠けているように見えますね。
>この場で慈恵病院の活動を肯定されている方が、ある種の宗教的信念に基づいてそう主張しているのか、あるいはそれとは無関係に個人の善意としてそう思っているのかは少し気になる所です。
恐らく前者だろうとF爺は推測しています。そこをはっきり言ってもらわないと、議論は「噛み合わないまま」です。
>※余談
吉田茂元総理は世間一般ではクリスチャンとして知られ、その葬儀もキリスト教カトリックの「東京カテドラル教会」で行われました。(国葬は日本武道館) 一方で「叡光院殿徹誉明徳素匯大居士」の戒名を受け、その墓は仏教式でした。しかし、その墓は青山霊園にある十字架をかたどった墓が多くある一角におかれ、孫である麻生元総理が参拝する写真なども「撮りようによっては十字架に祈ってるようにも見える」ものがありました。
ところが、最近所用で横浜の久保山墓地に行ったところ吉田茂氏の墓がありとてもびっくりしました。なぜなら、私はその時まで「吉田茂はクリスチャンで青山墓地に葬られた」という知識があったからです。調べてみると、2011年に横浜の久保山墓地に改葬となっておりました。周囲はほぼ仏教式の墓しかない一般的な日本の墓地でした。
これを見て、私は「ああ、吉田茂がクリスチャンだと言っていたのは、占領軍を騙し、信用させるための方便だったんだな」と強く思った次第です。日本人のキリスト教に対する態度が良く表れている一つの事例と思い紹介させていただきました。
F爺の母方の祖母は、キリスト教に改宗しても佛教徒であり続けました。https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1402.html
これは、「日本の外のキリスト教世界ではあり得ない」ことです。この知識があるため、吉田茂の墓が「佛教寺院にもある」こと自体には驚きません。
しかし、「吉田茂の改葬」というのは、政治がらみですから、驚愕の情報です。吉田茂の佛教式の墓が横浜の久保山墓地にあることを証明するような画像はありますか。
>カトリック教徒がほとんど存在しない日本で、その教義に基づいて、その理念の「一部だけを」実践するために多くの議論や法的な問題も無視して突き進もうとする慈恵病院のやり方には疑問を感じざるを得ません。
F爺も、そう思います。
>日本では他児養子はほとんど存在してないわけですから、「どこかの誰かが引き受けてくれるだろう」という希望的観測で「子捨て容認出産システム」を肯定するのは極めて無責任
その自覚が慈恵病院には欠けているように見えますね。
>この場で慈恵病院の活動を肯定されている方が、ある種の宗教的信念に基づいてそう主張しているのか、あるいはそれとは無関係に個人の善意としてそう思っているのかは少し気になる所です。
恐らく前者だろうとF爺は推測しています。そこをはっきり言ってもらわないと、議論は「噛み合わないまま」です。
>※余談
吉田茂元総理は世間一般ではクリスチャンとして知られ、その葬儀もキリスト教カトリックの「東京カテドラル教会」で行われました。(国葬は日本武道館) 一方で「叡光院殿徹誉明徳素匯大居士」の戒名を受け、その墓は仏教式でした。しかし、その墓は青山霊園にある十字架をかたどった墓が多くある一角におかれ、孫である麻生元総理が参拝する写真なども「撮りようによっては十字架に祈ってるようにも見える」ものがありました。
ところが、最近所用で横浜の久保山墓地に行ったところ吉田茂氏の墓がありとてもびっくりしました。なぜなら、私はその時まで「吉田茂はクリスチャンで青山墓地に葬られた」という知識があったからです。調べてみると、2011年に横浜の久保山墓地に改葬となっておりました。周囲はほぼ仏教式の墓しかない一般的な日本の墓地でした。
これを見て、私は「ああ、吉田茂がクリスチャンだと言っていたのは、占領軍を騙し、信用させるための方便だったんだな」と強く思った次第です。日本人のキリスト教に対する態度が良く表れている一つの事例と思い紹介させていただきました。
F爺の母方の祖母は、キリスト教に改宗しても佛教徒であり続けました。https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1402.html
これは、「日本の外のキリスト教世界ではあり得ない」ことです。この知識があるため、吉田茂の墓が「佛教寺院にもある」こと自体には驚きません。
しかし、「吉田茂の改葬」というのは、政治がらみですから、驚愕の情報です。吉田茂の佛教式の墓が横浜の久保山墓地にあることを証明するような画像はありますか。
No title
小島先生、
「そのような考えは素朴すぎる」とのお叱りを受けそうで、憚っていたのですが、やはり私自身の素直な感じ方やそれに基づく考えを素朴であれ未熟であれお示しする他ないと考えました。
先生はおっしゃいました。
> 「父親に肩車してもらってはしゃいでいる子供」を見て、つと少し離れた所に行って声を殺して泣いている
と。
しかし、この方が、何らかの幸運により家庭をもうけ、自らが得られなかったありふれた幸福を我が子に授ける立場になることもあり得たのではと思いたいのです。
ある子が生まれた時点で、そんな人生はあり得ないとまでは誰にも言えないと思うのです。また、匿名出産制度のお陰で中絶や子殺しを免れ、その後、そうした人生を送れた方が一人もいなかったとも思えません。
ご友人の悲しむべき人生も、やはり生まれた時点で絶対にそうなると決定づけられていたのではなく、その後の巡り合わせや制度のはざまにはまり込み、かような悲劇を辿ったのであり、もし、ご友人を育てた人々のうちの誰かが肩車をしてあげていれば、もし、少年期に誰かが寄り添っていれば、もし、、、と思わざるを得ません。
これは限られた情報から、欠けた部分を自分に都合のいい想像で補っているから成り立つ主張でしょうか。そうかもしれません。世の中には安穏な人生を送る人々が想像もできない理不尽があることも知ってはおりますが、私もどうしてもこういう考えに傾きます。
「匿名出産制度」「内密出産制度」の必要性を説く立場の人々の感じ方・考え方の筋道も同様ではないかと思います。この立場からは、ご友人の悲劇は「匿名出産制度」「内密出産制度」自体の存否の問題ではなく、運用の仕方の問題という捉え方になるはずと考えます。
今回も、やはり会話として噛み合うものとは出来なかったと感じております。
しかし「自由な形式でご感想を」とありましたのでお言葉に甘えることとしました。ご寛恕をいただければと思います。
補記1)
浅薄で図式的とは思いますが、人工妊娠中絶の是非は”pro-choice”か”pro-life”かという軸で把握することが多いと思います。
仮にこの図式に当てはめてみると、フランスの匿名出産制度や慈恵医大が試みつつある内密出産制度の趣旨は母親の選択権尊重(pro-choice)ではなく、子供の生命尊重(pro-life)であると私は認識していました。
しかし、それが実は子供の人生(これも同じlifeなんですよね...)を非常に過酷に傷つけているというのが小島先生のご指摘なのではと考えつつ、ここまでやりとりをして参りました。
補記2)
>>この場で慈恵病院の活動を肯定されている方が、ある種の宗教的信念に基づいてそう主張しているのか、あるいはそれとは無関係に個人の善意としてそう思っているのかは少し気になる所です。
>恐らく前者だろうとF爺は推測しています。そこをはっきり言ってもらわないと、議論は「噛み合わないまま」です。
コメントを書き終わった後で上のやりとりが目に入りましたので、
私のことを指していると仮定してお答えします。
> 慈恵病院の活動を肯定されている方
私としては、慈恵病院の活動を「単純に否定はできない」と述べているのみで、積極的に肯定まではしていないつもりです。積極的には肯定できない理由はみなさまとおおよそ同じです。
私は祖父が大正時代に改宗したキリスト教徒の家庭に育っていますが、今では自分が心から帰依しているという自覚もなく、降誕節や復活節の聖餐式もサボりがちという程度の「キリスト教徒」です。
(なので、人とそういう話になればクリスチャンの家に育ったということはありますが、自分がクリスチャンだということはありません)
そうは言っても、子供の頃は毎週教会に行っていましたし、仏教徒でも神道の信徒(?)でもないという自覚はありましたので、キリスト教的な考え方が知らず知らず内面化されていて、それを前提としたコメントになっていたかもしれません。
「そのような考えは素朴すぎる」とのお叱りを受けそうで、憚っていたのですが、やはり私自身の素直な感じ方やそれに基づく考えを素朴であれ未熟であれお示しする他ないと考えました。
先生はおっしゃいました。
> 「父親に肩車してもらってはしゃいでいる子供」を見て、つと少し離れた所に行って声を殺して泣いている
と。
しかし、この方が、何らかの幸運により家庭をもうけ、自らが得られなかったありふれた幸福を我が子に授ける立場になることもあり得たのではと思いたいのです。
ある子が生まれた時点で、そんな人生はあり得ないとまでは誰にも言えないと思うのです。また、匿名出産制度のお陰で中絶や子殺しを免れ、その後、そうした人生を送れた方が一人もいなかったとも思えません。
ご友人の悲しむべき人生も、やはり生まれた時点で絶対にそうなると決定づけられていたのではなく、その後の巡り合わせや制度のはざまにはまり込み、かような悲劇を辿ったのであり、もし、ご友人を育てた人々のうちの誰かが肩車をしてあげていれば、もし、少年期に誰かが寄り添っていれば、もし、、、と思わざるを得ません。
これは限られた情報から、欠けた部分を自分に都合のいい想像で補っているから成り立つ主張でしょうか。そうかもしれません。世の中には安穏な人生を送る人々が想像もできない理不尽があることも知ってはおりますが、私もどうしてもこういう考えに傾きます。
「匿名出産制度」「内密出産制度」の必要性を説く立場の人々の感じ方・考え方の筋道も同様ではないかと思います。この立場からは、ご友人の悲劇は「匿名出産制度」「内密出産制度」自体の存否の問題ではなく、運用の仕方の問題という捉え方になるはずと考えます。
今回も、やはり会話として噛み合うものとは出来なかったと感じております。
しかし「自由な形式でご感想を」とありましたのでお言葉に甘えることとしました。ご寛恕をいただければと思います。
補記1)
浅薄で図式的とは思いますが、人工妊娠中絶の是非は”pro-choice”か”pro-life”かという軸で把握することが多いと思います。
仮にこの図式に当てはめてみると、フランスの匿名出産制度や慈恵医大が試みつつある内密出産制度の趣旨は母親の選択権尊重(pro-choice)ではなく、子供の生命尊重(pro-life)であると私は認識していました。
しかし、それが実は子供の人生(これも同じlifeなんですよね...)を非常に過酷に傷つけているというのが小島先生のご指摘なのではと考えつつ、ここまでやりとりをして参りました。
補記2)
>>この場で慈恵病院の活動を肯定されている方が、ある種の宗教的信念に基づいてそう主張しているのか、あるいはそれとは無関係に個人の善意としてそう思っているのかは少し気になる所です。
>恐らく前者だろうとF爺は推測しています。そこをはっきり言ってもらわないと、議論は「噛み合わないまま」です。
コメントを書き終わった後で上のやりとりが目に入りましたので、
私のことを指していると仮定してお答えします。
> 慈恵病院の活動を肯定されている方
私としては、慈恵病院の活動を「単純に否定はできない」と述べているのみで、積極的に肯定まではしていないつもりです。積極的には肯定できない理由はみなさまとおおよそ同じです。
私は祖父が大正時代に改宗したキリスト教徒の家庭に育っていますが、今では自分が心から帰依しているという自覚もなく、降誕節や復活節の聖餐式もサボりがちという程度の「キリスト教徒」です。
(なので、人とそういう話になればクリスチャンの家に育ったということはありますが、自分がクリスチャンだということはありません)
そうは言っても、子供の頃は毎週教会に行っていましたし、仏教徒でも神道の信徒(?)でもないという自覚はありましたので、キリスト教的な考え方が知らず知らず内面化されていて、それを前提としたコメントになっていたかもしれません。
Re: No title
「dakusui」さん
>この方が、何らかの幸運により家庭をもうけ、自らが得られなかったありふれた幸福を我が子に授ける立場になることもあり得たのではと思いたいのです。
ある子が生まれた時点で、そんな人生はあり得ないとまでは誰にも言えないと思うのです。
ご存じないのだろうと思いますが、回教社会では「父無し子に幸せな人生はあり得ない」のが常識です。あらゆる機会に大人からも子供からも「売女の子」と罵られ、疎外され、苛められて・・・いじけて・・・世を恨んで育つのですよ。そんな男に娘を嫁(とつ)がせようという親も、そんな女を妻に迎えようとする男も、現われ得ません。
伝統のキリスト教社会も同じことです。西欧の一部で婚外出生児が「普通のこと」になったのは、つい最近の現象です。
よしんば、それでも人並みの人生を送ることの出来た人が一人や二人いたところで、何百万人もの不幸な子供にとって何の慰めにもなりません。逆に、我が身の不幸を更に歎きます。
なお、F爺との交信で英語の「life」を用いるのはご遠慮ください。用いると、超・多義語ですから、意思の疎通が必然的に不可能になるのです。
当ブログの記事〈命・暮らし・人生・・・(前)〉https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-730.html
〈命・暮らし・人生・・・(後)〉https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-732.html
を参照していただければ幸いです。
>この方が、何らかの幸運により家庭をもうけ、自らが得られなかったありふれた幸福を我が子に授ける立場になることもあり得たのではと思いたいのです。
ある子が生まれた時点で、そんな人生はあり得ないとまでは誰にも言えないと思うのです。
ご存じないのだろうと思いますが、回教社会では「父無し子に幸せな人生はあり得ない」のが常識です。あらゆる機会に大人からも子供からも「売女の子」と罵られ、疎外され、苛められて・・・いじけて・・・世を恨んで育つのですよ。そんな男に娘を嫁(とつ)がせようという親も、そんな女を妻に迎えようとする男も、現われ得ません。
伝統のキリスト教社会も同じことです。西欧の一部で婚外出生児が「普通のこと」になったのは、つい最近の現象です。
よしんば、それでも人並みの人生を送ることの出来た人が一人や二人いたところで、何百万人もの不幸な子供にとって何の慰めにもなりません。逆に、我が身の不幸を更に歎きます。
なお、F爺との交信で英語の「life」を用いるのはご遠慮ください。用いると、超・多義語ですから、意思の疎通が必然的に不可能になるのです。
当ブログの記事〈命・暮らし・人生・・・(前)〉https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-730.html
〈命・暮らし・人生・・・(後)〉https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-732.html
を参照していただければ幸いです。
吉田茂の現在の墓所
有名人なのでかなりの数の写真が出回っていますが、こちらのブログの記事が周囲の様子もわかっていいのかなと思います。
http://copperdentalcl4181.blog.fc2.com/blog-entry-329.html
改葬の理由などは「文芸春秋」に記事が載ったという話をネットで拾いましたが、私が直接読んだわけでは無いので要調査としておきます。ネット情報では、「吉田家発祥の地である横浜を選んだ」という理由らしいです。
http://copperdentalcl4181.blog.fc2.com/blog-entry-329.html
改葬の理由などは「文芸春秋」に記事が載ったという話をネットで拾いましたが、私が直接読んだわけでは無いので要調査としておきます。ネット情報では、「吉田家発祥の地である横浜を選んだ」という理由らしいです。
Re: 吉田茂の現在の墓所
鈴木良照さん
迅速なご返信、ありがとうございます。
F爺も「吉田茂の墓」でウェブ検索してみました。お知らせくださったブログの他にも、ずらずらずらと画像が出て来ました。知っている人は、たくさんいたのですね。
当ブログでは匿名サイトのリンクを貼ったコメントは表示しない原則にしていますが、例外を設けます。周囲の様子が良く分る優れたブログですね。
迅速なご返信、ありがとうございます。
F爺も「吉田茂の墓」でウェブ検索してみました。お知らせくださったブログの他にも、ずらずらずらと画像が出て来ました。知っている人は、たくさんいたのですね。
当ブログでは匿名サイトのリンクを貼ったコメントは表示しない原則にしていますが、例外を設けます。周囲の様子が良く分る優れたブログですね。
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
子供の「親が誰かを知る権利」について
F爺様
今回の慈恵病院における「内密出産」に関する話題ですが、
私は、本文の、F爺様の二通目の返信にあります、
「「自分は、強姦されて妊娠した母が心ならずも産み落とした子だった」」
あるいは、
「両親が事件史に残るような犯罪者である」
場合、子供の、「自分の両親が誰なのか知る権利」はどこまで認めたほうが良いのか、これが心に引っかかっていました。
そして、
F爺様の三通目の返信にあります、
『「見たことの無い男たちに輪姦されて妊娠したため父親が誰なのかは自分も知らない」』
という話や、
「コメント交信に書かなかったこと」を読んで、子供の、自分の親を知る権利を奪うべきではないが、知ったがために、不幸になることも十分あり得る、と認識しました。
自分の父親が誰なのか、とうの父親さえも認識していないうえ、自分が生まれたことは誰からも望まれていなかった、と知ってしまった人が酒や麻薬に溺れてしまっても、その行為を嗤うことなどできません。
「子供が、自分の親が誰なのかを知る権利は守られなければならないが、それが行使される時期は、本人が成長してからが望ましい」
これが、今の私の意見です。
もちろん、成長したと認められる時期はいつなのか、誰が判定するのか、解決していない項目を含んでいることは承知しています。
しかし、私の経験や知識、感性では、ここまでの意見にしかたどり着けません。
今回の慈恵病院における「内密出産」に関する話題ですが、
私は、本文の、F爺様の二通目の返信にあります、
「「自分は、強姦されて妊娠した母が心ならずも産み落とした子だった」」
あるいは、
「両親が事件史に残るような犯罪者である」
場合、子供の、「自分の両親が誰なのか知る権利」はどこまで認めたほうが良いのか、これが心に引っかかっていました。
そして、
F爺様の三通目の返信にあります、
『「見たことの無い男たちに輪姦されて妊娠したため父親が誰なのかは自分も知らない」』
という話や、
「コメント交信に書かなかったこと」を読んで、子供の、自分の親を知る権利を奪うべきではないが、知ったがために、不幸になることも十分あり得る、と認識しました。
自分の父親が誰なのか、とうの父親さえも認識していないうえ、自分が生まれたことは誰からも望まれていなかった、と知ってしまった人が酒や麻薬に溺れてしまっても、その行為を嗤うことなどできません。
「子供が、自分の親が誰なのかを知る権利は守られなければならないが、それが行使される時期は、本人が成長してからが望ましい」
これが、今の私の意見です。
もちろん、成長したと認められる時期はいつなのか、誰が判定するのか、解決していない項目を含んでいることは承知しています。
しかし、私の経験や知識、感性では、ここまでの意見にしかたどり着けません。
Re: 拙見を述べたく存じます。
神谷俊成さん
今回のコメントは、あまりにも硬い「拙見を述べたく存じます」式の文体の連続で、何をおっしゃりたいのか解かりません。
もっと平易な言葉で、誰にでも理解できるように、書き直していただけませんか。
コメント非表示のままで待機いたします。
今回のコメントは、あまりにも硬い「拙見を述べたく存じます」式の文体の連続で、何をおっしゃりたいのか解かりません。
もっと平易な言葉で、誰にでも理解できるように、書き直していただけませんか。
コメント非表示のままで待機いたします。
Re: 子供の「親が誰かを知る権利」について
「106」さん
>「コメント交信に書かなかったこと」を読んで、子供の、自分の親を知る権利を奪うべきではないが、知ったがために、不幸になることも十分あり得る、と認識しました。
悲しいことですが、それが現実です。
一方、匿名出産制度のあるフランスには、
「病院で合法的に匿名出産されるよりは、いっそのこと橋の下に捨て子にされたかった」
と歎く人がいます。
生物学上の親を探す子にとっては、
【橋の下で泣いている赤子の時に拾われて、実の親のことは誰も知らないし手掛かりも無いから自分には知り得ない】ほうが
【医師なり産婆なり法曹なり、母親が誰なのかを知っている赤の他人がいるのに、何の咎も無い当事者の自分には、法制上、知る権利が無い】
と宣告される無慈悲な現実よりもマシなのです。
慈恵病院のやり方は、これまでの報道で窺(うかが)える限りでは、「匿名の陰に隠れた卑劣な母に産み捨てられた」と感じる子供の歎きを端(はな)から無視しているように見えます。
>「コメント交信に書かなかったこと」を読んで、子供の、自分の親を知る権利を奪うべきではないが、知ったがために、不幸になることも十分あり得る、と認識しました。
悲しいことですが、それが現実です。
一方、匿名出産制度のあるフランスには、
「病院で合法的に匿名出産されるよりは、いっそのこと橋の下に捨て子にされたかった」
と歎く人がいます。
生物学上の親を探す子にとっては、
【橋の下で泣いている赤子の時に拾われて、実の親のことは誰も知らないし手掛かりも無いから自分には知り得ない】ほうが
【医師なり産婆なり法曹なり、母親が誰なのかを知っている赤の他人がいるのに、何の咎も無い当事者の自分には、法制上、知る権利が無い】
と宣告される無慈悲な現実よりもマシなのです。
慈恵病院のやり方は、これまでの報道で窺(うかが)える限りでは、「匿名の陰に隠れた卑劣な母に産み捨てられた」と感じる子供の歎きを端(はな)から無視しているように見えます。
Re:追伸 Re: 拙見を述べたく存じます。
神谷俊成さん
追申です。
「拙見」のような意味不明の文字列を使うのは、ご遠慮ください。「愚見」や「浅見」も、現代では、へりくだり方が大袈裟で、却って失礼ですよ。
「愚妻」だの「豚児」だのと同じことで、もうとっくに死語になっていて欲しいものです。
追申です。
「
「愚妻」だの「豚児」だのと同じことで、もうとっくに死語になっていて欲しいものです。
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
コメント欄に目を通さぬまま投稿を行いましたこと、お詫び申し上げます。
大変申し訳ございません。コメント欄に目を通さないまま新規にコメントの投稿を行い、今しがた先生の追伸に気がついた次第です。
文頭に「拙見」との語がございます。ご無礼致しましたこと、重ねてお詫び申し上げます。
文頭に「拙見」との語がございます。ご無礼致しましたこと、重ねてお詫び申し上げます。
Re: 「子が親の名を知らぬことが不幸ではない社会」は可能か。
神谷俊成さん
書き直した上での早速の再投稿、ありがとうございます。
読みやすくなったため、意味の解からない箇所が二つ、明確になりました。
[1]
この記事では、「父(てて)無し子」という言葉を、文脈で明らかなように、「父親が不明の子」という意味で用いています。正式に結婚した親から生まれて「父親に死なれた子」は、イスラーム社会でも、教条主義のキリスト教徒からも、差別は受けません。母親が「売女」呼ばわりされることもありません。また、この意味での「父(てて)無し子」が母親と一緒に暮らしているとは限りません。
神谷俊成さんのお使いになっている「母子家庭」という言葉の語義とは、定義が大幅にずれているのです。
[2]
>文化を「我々の全ての計画の無意識の背景をなすもの」と定義すると
これは、神谷俊成さんの独自の定義ですか。それとも誰かのしている定義の引用ですか。F爺の見るところでは、この文字列は、特定の社会の成員が共有する「迷信」や「因襲」「無意識の悪癖」などを含みますから、「文化」の定義としては不十分です。また、「文化生活」「文化人」などと言う時の「文化」を含まないことになります。
大変恐れ入りますが、上の二点の曖昧さを解消するべく用語を吟味した上で、もう一度書き直してくださることは可能でしょうか。
書き直した上での早速の再投稿、ありがとうございます。
読みやすくなったため、意味の解からない箇所が二つ、明確になりました。
[1]
この記事では、「父(てて)無し子」という言葉を、文脈で明らかなように、「父親が不明の子」という意味で用いています。正式に結婚した親から生まれて「父親に死なれた子」は、イスラーム社会でも、教条主義のキリスト教徒からも、差別は受けません。母親が「売女」呼ばわりされることもありません。また、この意味での「父(てて)無し子」が母親と一緒に暮らしているとは限りません。
神谷俊成さんのお使いになっている「母子家庭」という言葉の語義とは、定義が大幅にずれているのです。
[2]
>文化を「我々の全ての計画の無意識の背景をなすもの」と定義すると
これは、神谷俊成さんの独自の定義ですか。それとも誰かのしている定義の引用ですか。F爺の見るところでは、この文字列は、特定の社会の成員が共有する「迷信」や「因襲」「無意識の悪癖」などを含みますから、「文化」の定義としては不十分です。また、「文化生活」「文化人」などと言う時の「文化」を含まないことになります。
大変恐れ入りますが、上の二点の曖昧さを解消するべく用語を吟味した上で、もう一度書き直してくださることは可能でしょうか。
Re: コメント欄に目を通さぬまま投稿を行いましたこと、お詫び申し上げます。
神谷俊成さん
コメントを再度書き直してくださる時に辞書にも載っていない「拙見」という文字列を排除していただければ幸いです。
コメントを再度書き直してくださる時に辞書にも載っていない「
問題点をご指摘いただき、ありがとうございます。
[1]重要な点に注意が行き届かず、汗顔の至りです。ご指摘いただいた内容を踏まえ、書き直したく存じます。
[2]T.S.Eliotにより、“NOTES TOWARDS THE DEFINITION OF CULTURE”にて示された定義を引用しております。以下の文献の94頁から、文化の定義が端的に示されていると考えられる箇所を要約の上、引用いたしました。引用元を明示しなかったのは、私の怠慢によるものであり、お詫び申し上げる次第です。
Notes Towards a Definition of Culture https://www.amazon.com/dp/0571063136/ref=cm_sw_r_awdo_navT_g_JNDSEMGY5D4B5X5W24KC
----------
We should do well also,to refer to the subsidised and artificially stimulated activities each by its name:let us do what is necessary for painting and sculpture,or architecture,or the theatre,or music,or one another science or department of intellectual exercise,speaking of each by its name,and restraining ourselves from using the word ´culture` as a comprehensive term.
For thus we slip into the assumption that culture can be planned.
Culture can never be wholly conscious─there is always more to it than we are conscious of;and it cannot be planned because it is also the unconscious background of all our planning.
----------
(上記文献94頁より)
上記引用部分の最後の文に依拠してコメントを書きました。
無論、Eliotの文化についての認識全てが上記引用部分に表されているわけではありません。しかし、彼の文化論の特徴が端的に表されている箇所であると考えた次第です。
書き直しに際し、一点決めかねている点がございます。「文化の定義・性質」についての論は数あれど、先生にご指摘いただいた要件を充足するものが、私の知る範囲にはないのです。
---------
これは、神谷俊成さんの独自の定義ですか。それとも誰かのしている定義の引用ですか。F爺の見るところでは、この文字列は、特定の社会の成員が共有する「迷信」や「因襲」「無意識の悪癖」などを含みますから、「文化」の定義としては不十分です。また、「文化生活」「文化人」などと言う時の「文化」を含まないことになります。
----------
この点、誰かの論を引用するのではなく、次の私なりの定義を採用した方がよろしいでしょうか。
【近代的価値への志向と、歴史的に受継された伝統とのあいだには、絶えざる摩擦があるものと解します。かかる摩擦のうちに、徐々に「因襲」として文化から排除されてゆく要素もあれば、他方文化の新たな構成要素として受け入れられるものもあり、そのようにして有機的な生活の総体が形成されてゆくのであると考えられます。
そして、文化の変容とは上述の如く漸進的なものであるが故に、革命的な変革を来すことが滅多にないのだと解します。】
日本時間で21:00までには、書き直したコメントを投稿致します。不備がございましたら、ご指摘いただきたく存じます。お手数お掛け致しますが、ご指導、ご鞭撻を賜れれば、幸甚に存じます。
[2]T.S.Eliotにより、“NOTES TOWARDS THE DEFINITION OF CULTURE”にて示された定義を引用しております。以下の文献の94頁から、文化の定義が端的に示されていると考えられる箇所を要約の上、引用いたしました。引用元を明示しなかったのは、私の怠慢によるものであり、お詫び申し上げる次第です。
Notes Towards a Definition of Culture https://www.amazon.com/dp/0571063136/ref=cm_sw_r_awdo_navT_g_JNDSEMGY5D4B5X5W24KC
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We should do well also,to refer to the subsidised and artificially stimulated activities each by its name:let us do what is necessary for painting and sculpture,or architecture,or the theatre,or music,or one another science or department of intellectual exercise,speaking of each by its name,and restraining ourselves from using the word ´culture` as a comprehensive term.
For thus we slip into the assumption that culture can be planned.
Culture can never be wholly conscious─there is always more to it than we are conscious of;and it cannot be planned because it is also the unconscious background of all our planning.
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(上記文献94頁より)
上記引用部分の最後の文に依拠してコメントを書きました。
無論、Eliotの文化についての認識全てが上記引用部分に表されているわけではありません。しかし、彼の文化論の特徴が端的に表されている箇所であると考えた次第です。
書き直しに際し、一点決めかねている点がございます。「文化の定義・性質」についての論は数あれど、先生にご指摘いただいた要件を充足するものが、私の知る範囲にはないのです。
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これは、神谷俊成さんの独自の定義ですか。それとも誰かのしている定義の引用ですか。F爺の見るところでは、この文字列は、特定の社会の成員が共有する「迷信」や「因襲」「無意識の悪癖」などを含みますから、「文化」の定義としては不十分です。また、「文化生活」「文化人」などと言う時の「文化」を含まないことになります。
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この点、誰かの論を引用するのではなく、次の私なりの定義を採用した方がよろしいでしょうか。
【近代的価値への志向と、歴史的に受継された伝統とのあいだには、絶えざる摩擦があるものと解します。かかる摩擦のうちに、徐々に「因襲」として文化から排除されてゆく要素もあれば、他方文化の新たな構成要素として受け入れられるものもあり、そのようにして有機的な生活の総体が形成されてゆくのであると考えられます。
そして、文化の変容とは上述の如く漸進的なものであるが故に、革命的な変革を来すことが滅多にないのだと解します。】
日本時間で21:00までには、書き直したコメントを投稿致します。不備がございましたら、ご指摘いただきたく存じます。お手数お掛け致しますが、ご指導、ご鞭撻を賜れれば、幸甚に存じます。
Re: 問題点をご指摘いただき、ありがとうございます。
神谷俊成さん
T.S.Eliotの文章は、引用部分を読む限り、「文化の定義の試み」と言うよりも「文化を定義することの難しさ」を述べていると見えます。
また、
〈文化には、その文化の担い手の意識していない部分がある〉
という意味のことを言っています。引用部分の最後の文字列だけを日本語訳したのでは、その重要な原意が見えません。
神谷俊成さんご自身のお考えによる定義を、出来ればもっと簡潔な形で、明示してください。
その際に「受継された」「排除されてゆく」「受け入れられる」「形成されてゆく」と擬似受動態https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1451.htmlを並べると、主体が隠蔽してあるため、文意が宿命的に曖昧になります。なるべく避けるようにしてください。
>日本時間で21:00までには、書き直したコメントを投稿致します。
お待ちしております。21時を過ぎても別に構いませんよ。
T.S.Eliotの文章は、引用部分を読む限り、「文化の定義の試み」と言うよりも「文化を定義することの難しさ」を述べていると見えます。
また、
〈文化には、その文化の担い手の意識していない部分がある〉
という意味のことを言っています。引用部分の最後の文字列だけを日本語訳したのでは、その重要な原意が見えません。
神谷俊成さんご自身のお考えによる定義を、出来ればもっと簡潔な形で、明示してください。
その際に「受継された」「排除されてゆく」「受け入れられる」「形成されてゆく」と擬似受動態https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1451.htmlを並べると、主体が隠蔽してあるため、文意が宿命的に曖昧になります。なるべく避けるようにしてください。
>日本時間で21:00までには、書き直したコメントを投稿致します。
お待ちしております。21時を過ぎても別に構いませんよ。
「子が親の名を知らぬことが不幸ではない社会」は可能か。
小島先生
※繰り返し、要領を得ないコメントを投稿致しましたこと、お詫び申し上げます。
①小島先生と「dakusui」様の話が噛み合わない理由について。
「dakusui」様のご年齢・お住まいの地域等については、私は何も存じません。しかし、小島先生と「dakusui」様の話が中々噛み合わない理由については、推測することが可能です。
この点および関連する問題につき、私見を述べたく存じます。
まず、大変恐縮ながら、私の生い立ちについて少々お話ししたく存じます。
私は1993年に東京に生まれ、横浜に育ちました。小・中学生の頃、いわゆる「母子家庭」に育った同級生は一定数おりました。
無論、一口に「母子家庭」と申しましても、その内実は様々であります。ぱっと思い付くだけでも、以下の4つのケースを想定可能です。
1.父親が死亡したケース
2.両親が離婚したケース
3.そもそも、父親が不明であるケース
4.父親が、家族を残して蒸発したケース
かように、母子家庭の在り方は一様ではありません。しかし私が子供であった時分、同級生ないし周囲の大人達が、「ある母子家庭が、上記の1~4のいずれに該当するか」ということについて話しているのを聞いた記憶がありません。すなわち、「(殆ど)誰も、ある子供が父無し子であるか否か」を、気にしてはいなかった、と言うことができます。「あの家は片親だから云々」といった侮蔑の言葉は、耳にしたことがありません。無論、母子家庭それ自体を蔑む者、および母子家庭に育った者を「不幸」とみなす者も、記憶にあるかぎり、周囲にはおりませんでした。私の両親も多分に漏れません。私の、母子家庭に育った友人が父無し子であるか否かについて、詮索することは一切ありませんでした(私自身、今もって詳細については存じません)。また、私がその友人と遊ぶこと、彼を私宅に招くことについても、何ら問題と致しませんでした。
尤も、その友人の心中について、推し量りかねる点はございます。普段、人には見せなかっただけで、大きなコンプレックスを抱えていたのかもしれません。ただ、それを助長するような社会的条件はほぼ無かった、と言うことはできます。
この点、地域性によるところは大きかったと思われますし、無論、子供にとって良いことばかりではありませんでした。出自や家族構成を問題としない代わりに、子供の学業成績や素行に対する大人達の目には厳しいものがありました。さりとて「父無し子である」といった、本人の責任によらない事柄によって、子供が心理的圧迫を受けることが僅少であったという点において、「公平であった」と評することは妥当であると考えます。
かような環境に育った私には、先生がご指摘になった以下の事実には、理解が及ばないのみならず、怒りすら覚えます。
----------
ご存じないのだろうと思いますが、回教社会では「父無し子に幸せな人生はあり得ない」のが常識です。あらゆる機会に大人からも子供からも「売女の子」と罵られ、疎外され、苛められて・・・いじけて・・・世を恨んで育つのですよ。そんな男に娘を嫁(とつ)がせようという親も、そんな女を妻に迎えようとする男も、現われ得ません。
伝統のキリスト教社会も同じことです。西欧の一部で婚外出生児が「普通のこと」になったのは、つい最近の現象です。
----------
私は、幸せな「日本的無宗教」のうちに、今日まで生活して参りました。「dakusui」様のご認識も、私のそれと近似したものであると推察致します。この認識の最大公約数は、次のようなものであると考えられます。即ち、
「たとえ父無し子であっても、経済的に困窮していないのであれば、不幸とみなす理由はないのではないか。まして父無し子であるというだけの理由で、その者の人格を貶めるのは、明らかに不当である。」
「dakusui」様と私に限らず、多くの日本人は、程度の差こそあれ、上のように認識しているものと推察致します。すなわち、多くの日本人は、「父無し子の幸福な人生」を容易に観念することが可能です。
しかし、先生のご来歴は、一般的な日本人と全く異なるものであります。
「父無し子に幸せな人生はあり得ない」のが常識である社会については、私は書籍の中でしか知りません。「父無し子が罵倒・疎外・苛めの対象となり、結婚の機会すら与えられぬ」という点についても、同様であります。
一方、先生は上の現実を、世界各地で度々目の当たりにされているに留まらず、上のような社会で生活された経験も豊富に有しておいでです。イスラーム教・伝統的キリスト教社会の冷厳さについて、目で見て、耳で聞いて、そして肌で感じることによってご存じでいらっしゃることと存じます。
一方、先述の通り、「dakusui」様のご認識は、私と大同小異のものであると推察致します。則ち、「dakusui」様は、私と同じく、「父無し子の幸福な人生」を容易に観念なさることができるのではないかと考えます。
則ち、「父無し子に幸せな人生はあり得ない」社会を目の当たりにしておられ、その内実を十分にご存じでいらっしゃる小島先生と、
そうではない「dakusui」様とのあいだに、「父無し子」についての認識上のギャップが生じているものと考えます。
②問題の所在
これより先、論ずる範囲を「日本の他、ごく限られた国と地域」に限定する旨、お断りしておきます。世界中のあらゆる国と地域について論じることは、私の手に余りますゆえ、ご了承いただきたく存じます。
「文化とは何か」という問いに答えることは、著しく困難です。また、文化が自然科学と同じように進歩し得るものか否かについても、私には分かりかねます。さりとて論題に則せば、この「文化の定義」の問題を避けて通ることはできないため、字数を割いて考察したく存じます。
【文化の定義】
「文化は常に、近代的価値への志向と、我々社会の成員が歴史的に受継した伝統とのあいだの絶えざる摩擦のうえに成立しているものと考えます。我々は、かかる摩擦を経るうちに、文化の構成要素の一部を「因襲」として文化から徐々に排除してゆきます。
以下、「因襲」とみなされつつあるものの例を2つ挙げます。
具体例1.左利きの矯正
かつては家庭や学校にて左利きの子供を右利きに矯正することはありふれたことでしたが、近年ではこの習慣は廃れつつあります。この背景には、脳科学の研究成果の他、PCの普及により、手書きで文字を書く機会が減少したことなどがあると考えられます。
具体例2.小料理屋・居酒屋での「お通し」「突き出し」
もともと、「注文したわけでもないものに対価を支払わなければならないのはおかしい」と述べる客は少なくありませんでした。この言い分を正当たらしめる要因は、民法に求められます。
----------
第522条
1.契約は、契約の内容を示してその締結を申し入れる意思表示(以下「申込み」という。)に対して相手方が承諾をしたときに成立する。
----------
ここに明らかな通り、「お通し」「突き出し」の名目で何らかの品を出されたとしても、客側は任意にそれを拒絶することができると解するのが妥当です。
2022年現在、東京都区部では、お通しを廃止するか、注文制にする小料理屋・居酒屋が増加しています。
以上2つの例から分かる通り、伝統は「錦の御旗」ではありません。法学・医学・工学...などの知見に照らして明らかに不合理なものを、「因襲」として排除してゆく性質が社会には備わっていると考えます。
他方、我々は社会の外部から、何らかのものを文化の新たな構成要素として迎え入れることもあります。このような、「因襲の排除」と「新たな要素の受け入れ」の繰り返しによって形成される、ある社会の成員らの生活の有機的な総体が、文化であると解します。」
次いで、「自然科学の知見と宗教の規範」との関係について考察致します。宗教権力による自然科学の知見への弾圧の歴史については、高校~大学の教養課程で得た程度のものではございますが、通り一遍の知識はございます。「宗教権力に唯々諾々と従っているばかりでは、科学的進歩はあり得ない」ということについては、理解可能です。すなわち、自然科学の研究に際して、宗教の規範を「無知蒙昧なもの」とみなすのが自然であることは、容易に受け入れることができます。
しかし、こと文化の問題となると、一筋縄ではいきません。文化を上述のようなものと考えた場合、下記2点のあいだに境界はあると考えられるものの、いざその線引きを行うとなると、著しい困難が伴うからであります。
・文化の構成要素として正当の地位を認めるべきもの。
・因襲として排除されるべきもの。
この点については、次のように論点を定めるべきと考えます。
【論点】
「誰しも『自身の故意または過失によらない事柄によって社会的不利益を被りたくない』と考える。このことを客観的事実とみなすことが妥当か否か。また、この問題の解釈いかんによって、著しい不利益を被る者が現れ得るか否か。」
次いで、次のように解釈すべきと考えます。
【解釈】
「その結論に客観的妥当性を認めることが可能であり、かつその是非いかんによって甚大な弊害が生じ得る類いの問題については、自然科学の問題に準じた扱いをすべきと解する。」
【結論】
ここで提起した問題については、自然科学の法則と等しく、客観的に観測可能な事実であると認められると考えます。また、現に社会的不利益を被っている者が存在します。
すなわち、「イスラーム教・伝統的キリスト教の教義ないし規範は、客観的に観測可能な事実に即して不当であり、一部の社会の成員に対し、社会的損失を被らせている」とみなすことが可能であります。
尤も、我が国の現行法の枠組みにおいては、イスラーム教や伝統的キリスト教の規範を、「公序良俗に反する」として一律に社会から排斥することはできません。しかし、行政の判断や判例の蓄積によって、我が国の依拠すべき立場を示すことは可能でありますし、その試みは現に行われております。
③自殺された男性について
私の生活世界とまったく異なる規範を有する社会にて、世を儚んで、自ら命を断たれた男性の苦悩と絶望については、想像するに余りあるとしか申し上げようがございません。しかし、全く希望がないかいえば、そうとも言いきれないのではないかと考えます。
----------
伝統のキリスト教社会も同じことです。西欧の一部で婚外出生児が「普通のこと」になったのは、つい最近の現象です。
----------
この点、裏返せば、「従来、『普通のこと』ではなかった婚外出生児が、現在においては、『一般的』とは言えないまでも、『珍しいこと』ではなくなっている」ということができると考えます。
上に述べた定義に照らせば、文化は、「観測可能な客観的事実に即し、誤りであること」を排除してゆく機能を自ずと具備しているものと解します。
無論、1つの社会が、どの宗教を奉じているか、政治体制がどのような種類のものか、といった諸々事柄によって、かかる変化の速度はまちまちであると思われます。しかし、文化の性質が上述のようなものであるとするならば、御記事中に登場した不幸な男性のような事例は、徐々に減って行くものと解することは無理ではないと考えます。
④まとめ
・「『産む・産まない』についての母の選択権」と「やがて産まれてくる子供の生命」、いずれを尊重すべきか、という問いには、今のところ答えはない。
・しかし、「父無し子」としてこの世に生を享けた子供が社会的損失を被るような社会は、決して望ましいものではない。
・この点、強権的手法による解決は至難もしくは不可能である。
・しかし、行政の判断と、判例の蓄積によって、事態を漸進的に改善してゆくことは可能である。
以上のように考えた次第です。
※繰り返し、要領を得ないコメントを投稿致しましたこと、お詫び申し上げます。
①小島先生と「dakusui」様の話が噛み合わない理由について。
「dakusui」様のご年齢・お住まいの地域等については、私は何も存じません。しかし、小島先生と「dakusui」様の話が中々噛み合わない理由については、推測することが可能です。
この点および関連する問題につき、私見を述べたく存じます。
まず、大変恐縮ながら、私の生い立ちについて少々お話ししたく存じます。
私は1993年に東京に生まれ、横浜に育ちました。小・中学生の頃、いわゆる「母子家庭」に育った同級生は一定数おりました。
無論、一口に「母子家庭」と申しましても、その内実は様々であります。ぱっと思い付くだけでも、以下の4つのケースを想定可能です。
1.父親が死亡したケース
2.両親が離婚したケース
3.そもそも、父親が不明であるケース
4.父親が、家族を残して蒸発したケース
かように、母子家庭の在り方は一様ではありません。しかし私が子供であった時分、同級生ないし周囲の大人達が、「ある母子家庭が、上記の1~4のいずれに該当するか」ということについて話しているのを聞いた記憶がありません。すなわち、「(殆ど)誰も、ある子供が父無し子であるか否か」を、気にしてはいなかった、と言うことができます。「あの家は片親だから云々」といった侮蔑の言葉は、耳にしたことがありません。無論、母子家庭それ自体を蔑む者、および母子家庭に育った者を「不幸」とみなす者も、記憶にあるかぎり、周囲にはおりませんでした。私の両親も多分に漏れません。私の、母子家庭に育った友人が父無し子であるか否かについて、詮索することは一切ありませんでした(私自身、今もって詳細については存じません)。また、私がその友人と遊ぶこと、彼を私宅に招くことについても、何ら問題と致しませんでした。
尤も、その友人の心中について、推し量りかねる点はございます。普段、人には見せなかっただけで、大きなコンプレックスを抱えていたのかもしれません。ただ、それを助長するような社会的条件はほぼ無かった、と言うことはできます。
この点、地域性によるところは大きかったと思われますし、無論、子供にとって良いことばかりではありませんでした。出自や家族構成を問題としない代わりに、子供の学業成績や素行に対する大人達の目には厳しいものがありました。さりとて「父無し子である」といった、本人の責任によらない事柄によって、子供が心理的圧迫を受けることが僅少であったという点において、「公平であった」と評することは妥当であると考えます。
かような環境に育った私には、先生がご指摘になった以下の事実には、理解が及ばないのみならず、怒りすら覚えます。
----------
ご存じないのだろうと思いますが、回教社会では「父無し子に幸せな人生はあり得ない」のが常識です。あらゆる機会に大人からも子供からも「売女の子」と罵られ、疎外され、苛められて・・・いじけて・・・世を恨んで育つのですよ。そんな男に娘を嫁(とつ)がせようという親も、そんな女を妻に迎えようとする男も、現われ得ません。
伝統のキリスト教社会も同じことです。西欧の一部で婚外出生児が「普通のこと」になったのは、つい最近の現象です。
----------
私は、幸せな「日本的無宗教」のうちに、今日まで生活して参りました。「dakusui」様のご認識も、私のそれと近似したものであると推察致します。この認識の最大公約数は、次のようなものであると考えられます。即ち、
「たとえ父無し子であっても、経済的に困窮していないのであれば、不幸とみなす理由はないのではないか。まして父無し子であるというだけの理由で、その者の人格を貶めるのは、明らかに不当である。」
「dakusui」様と私に限らず、多くの日本人は、程度の差こそあれ、上のように認識しているものと推察致します。すなわち、多くの日本人は、「父無し子の幸福な人生」を容易に観念することが可能です。
しかし、先生のご来歴は、一般的な日本人と全く異なるものであります。
「父無し子に幸せな人生はあり得ない」のが常識である社会については、私は書籍の中でしか知りません。「父無し子が罵倒・疎外・苛めの対象となり、結婚の機会すら与えられぬ」という点についても、同様であります。
一方、先生は上の現実を、世界各地で度々目の当たりにされているに留まらず、上のような社会で生活された経験も豊富に有しておいでです。イスラーム教・伝統的キリスト教社会の冷厳さについて、目で見て、耳で聞いて、そして肌で感じることによってご存じでいらっしゃることと存じます。
一方、先述の通り、「dakusui」様のご認識は、私と大同小異のものであると推察致します。則ち、「dakusui」様は、私と同じく、「父無し子の幸福な人生」を容易に観念なさることができるのではないかと考えます。
則ち、「父無し子に幸せな人生はあり得ない」社会を目の当たりにしておられ、その内実を十分にご存じでいらっしゃる小島先生と、
そうではない「dakusui」様とのあいだに、「父無し子」についての認識上のギャップが生じているものと考えます。
②問題の所在
これより先、論ずる範囲を「日本の他、ごく限られた国と地域」に限定する旨、お断りしておきます。世界中のあらゆる国と地域について論じることは、私の手に余りますゆえ、ご了承いただきたく存じます。
「文化とは何か」という問いに答えることは、著しく困難です。また、文化が自然科学と同じように進歩し得るものか否かについても、私には分かりかねます。さりとて論題に則せば、この「文化の定義」の問題を避けて通ることはできないため、字数を割いて考察したく存じます。
【文化の定義】
「文化は常に、近代的価値への志向と、我々社会の成員が歴史的に受継した伝統とのあいだの絶えざる摩擦のうえに成立しているものと考えます。我々は、かかる摩擦を経るうちに、文化の構成要素の一部を「因襲」として文化から徐々に排除してゆきます。
以下、「因襲」とみなされつつあるものの例を2つ挙げます。
具体例1.左利きの矯正
かつては家庭や学校にて左利きの子供を右利きに矯正することはありふれたことでしたが、近年ではこの習慣は廃れつつあります。この背景には、脳科学の研究成果の他、PCの普及により、手書きで文字を書く機会が減少したことなどがあると考えられます。
具体例2.小料理屋・居酒屋での「お通し」「突き出し」
もともと、「注文したわけでもないものに対価を支払わなければならないのはおかしい」と述べる客は少なくありませんでした。この言い分を正当たらしめる要因は、民法に求められます。
----------
第522条
1.契約は、契約の内容を示してその締結を申し入れる意思表示(以下「申込み」という。)に対して相手方が承諾をしたときに成立する。
----------
ここに明らかな通り、「お通し」「突き出し」の名目で何らかの品を出されたとしても、客側は任意にそれを拒絶することができると解するのが妥当です。
2022年現在、東京都区部では、お通しを廃止するか、注文制にする小料理屋・居酒屋が増加しています。
以上2つの例から分かる通り、伝統は「錦の御旗」ではありません。法学・医学・工学...などの知見に照らして明らかに不合理なものを、「因襲」として排除してゆく性質が社会には備わっていると考えます。
他方、我々は社会の外部から、何らかのものを文化の新たな構成要素として迎え入れることもあります。このような、「因襲の排除」と「新たな要素の受け入れ」の繰り返しによって形成される、ある社会の成員らの生活の有機的な総体が、文化であると解します。」
次いで、「自然科学の知見と宗教の規範」との関係について考察致します。宗教権力による自然科学の知見への弾圧の歴史については、高校~大学の教養課程で得た程度のものではございますが、通り一遍の知識はございます。「宗教権力に唯々諾々と従っているばかりでは、科学的進歩はあり得ない」ということについては、理解可能です。すなわち、自然科学の研究に際して、宗教の規範を「無知蒙昧なもの」とみなすのが自然であることは、容易に受け入れることができます。
しかし、こと文化の問題となると、一筋縄ではいきません。文化を上述のようなものと考えた場合、下記2点のあいだに境界はあると考えられるものの、いざその線引きを行うとなると、著しい困難が伴うからであります。
・文化の構成要素として正当の地位を認めるべきもの。
・因襲として排除されるべきもの。
この点については、次のように論点を定めるべきと考えます。
【論点】
「誰しも『自身の故意または過失によらない事柄によって社会的不利益を被りたくない』と考える。このことを客観的事実とみなすことが妥当か否か。また、この問題の解釈いかんによって、著しい不利益を被る者が現れ得るか否か。」
次いで、次のように解釈すべきと考えます。
【解釈】
「その結論に客観的妥当性を認めることが可能であり、かつその是非いかんによって甚大な弊害が生じ得る類いの問題については、自然科学の問題に準じた扱いをすべきと解する。」
【結論】
ここで提起した問題については、自然科学の法則と等しく、客観的に観測可能な事実であると認められると考えます。また、現に社会的不利益を被っている者が存在します。
すなわち、「イスラーム教・伝統的キリスト教の教義ないし規範は、客観的に観測可能な事実に即して不当であり、一部の社会の成員に対し、社会的損失を被らせている」とみなすことが可能であります。
尤も、我が国の現行法の枠組みにおいては、イスラーム教や伝統的キリスト教の規範を、「公序良俗に反する」として一律に社会から排斥することはできません。しかし、行政の判断や判例の蓄積によって、我が国の依拠すべき立場を示すことは可能でありますし、その試みは現に行われております。
③自殺された男性について
私の生活世界とまったく異なる規範を有する社会にて、世を儚んで、自ら命を断たれた男性の苦悩と絶望については、想像するに余りあるとしか申し上げようがございません。しかし、全く希望がないかいえば、そうとも言いきれないのではないかと考えます。
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伝統のキリスト教社会も同じことです。西欧の一部で婚外出生児が「普通のこと」になったのは、つい最近の現象です。
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この点、裏返せば、「従来、『普通のこと』ではなかった婚外出生児が、現在においては、『一般的』とは言えないまでも、『珍しいこと』ではなくなっている」ということができると考えます。
上に述べた定義に照らせば、文化は、「観測可能な客観的事実に即し、誤りであること」を排除してゆく機能を自ずと具備しているものと解します。
無論、1つの社会が、どの宗教を奉じているか、政治体制がどのような種類のものか、といった諸々事柄によって、かかる変化の速度はまちまちであると思われます。しかし、文化の性質が上述のようなものであるとするならば、御記事中に登場した不幸な男性のような事例は、徐々に減って行くものと解することは無理ではないと考えます。
④まとめ
・「『産む・産まない』についての母の選択権」と「やがて産まれてくる子供の生命」、いずれを尊重すべきか、という問いには、今のところ答えはない。
・しかし、「父無し子」としてこの世に生を享けた子供が社会的損失を被るような社会は、決して望ましいものではない。
・この点、強権的手法による解決は至難もしくは不可能である。
・しかし、行政の判断と、判例の蓄積によって、事態を漸進的に改善してゆくことは可能である。
以上のように考えた次第です。
Re: 「子が親の名を知らぬことが不幸ではない社会」は可能か。
神谷俊成さん
再度の書き直し投稿、ありがとうございます。取り敢えず表示だけします。所用で出掛けるため、後程、返信します。日本時間で明日の日付になります。
再度の書き直し投稿、ありがとうございます。取り敢えず表示だけします。所用で出掛けるため、後程、返信します。日本時間で明日の日付になります。
Re: Re: 「子が親の名を知らぬことが不幸ではない社会」は可能か。
神谷俊成さん
>私が子供であった時分、同級生ないし周囲の大人達が、「ある母子家庭が、上記の1〜4のいずれに該当するか」ということについて話しているのを聞いた記憶がありません。すなわち、「(殆ど)誰も、ある子供が父無し子であるか否か」を、気にしてはいなかった、と言うことができます。「あの家は片親だから云々」といった侮蔑の言葉は、耳にしたことがありません。無論、母子家庭それ自体を蔑む者、および母子家庭に育った者を「不幸」とみなす者も、記憶にあるかぎり、周囲にはおりませんでした。
F爺が大学生になるまでの秋田にも東京にも、「片親」「戸籍上の父親がシベリアに抑留中に生まれた子」「両親とも日本人なのに見るからに混血の子」などは、大人同士の会話で時折聞くものでしたよ。中学生や高校生向けの雑誌にも、何号かに一篇ぐらい
〈片親の子の悩みに答えるページ〉
があったのを憶えています。
(残念ながら、雑誌の名前も、いつのことだったのかも、憶えていません)
《片親の子って、経済的にも大変だし、就職にも苦労するんだなあ》
と同情し、
《自分は、片親でなくて運が好いのだ》
とも思いました。
因みにF坊やの周囲では、母子家庭の子、父子家庭の子、両親ともいない子が珍しくありませんでした。敗戦直後って、そういうものだったのです。
F坊やは、他所の子の親に
「父親は、いるのか」
と質問されたことは一度もありませんが、優しく、笑顔で
「F君のお父さんは、どんなお仕事をしているの↗」
とは、しょっちゅう訊かれました。片親か否かを探ろうとしていたことは、少し大きくなってから理解できました。
日本にも、時代により地域によっては、現在の回教圏とさほど違わない状況があったのです。
>これより先、論ずる範囲を「日本の他、ごく限られた国と地域」に限定する旨、お断りしておきます。世界中のあらゆる国と地域について論じることは、私の手に余りますゆえ、ご了承いただきたく存じます。
「ごく限られた国と地域」というのは、どこの国と地域のことなのでしようか。この表現では、何も分かりませんよ。
>「文化は常に、近代的価値への志向と、我々社会の成員が歴史的に受継した伝統とのあいだの絶えざる摩擦のうえに成立しているものと考えます。我々は、かかる摩擦を経るうちに、文化の構成要素の一部を「因襲」として文化から徐々に排除してゆきます。
「閉じる鉤括弧」( 」 )が一つ抜けているため意味不明になってしまっています。次のご投稿で補ってください。
なお、文化に「常に、近代的価値への志向」があるというお考えは、F爺にとっては、奇異です。そうではない文化を多数見て来たのです。上に書いた「ごく限られた国と地域」がどこのことなのか分らないと、相互理解は成立しません。
>かつては家庭や学校にて左利きの子供を右利きに矯正することはありふれたことでしたが、近年ではこの習慣は廃れつつあります。この背景には、脳科学の研究成果の他、PCの普及により、手書きで文字を書く機会が減少したことなどがあると考えられます。
茶色の文字にした部分には、首を傾げます。因果関係があるとは、F爺には考えられません。箸を右手で使うか左手で使うかは、パソコンの普及とは無関係だと思います。
>具体例2.小料理屋・居酒屋での「お通し」「突き出し」
もともと、「注文したわけでもないものに対価を支払わなければならないのはおかしい」と述べる客は少なくありませんでした。
(・・・)
2022年現在、東京都区部では、お通しを廃止するか、注文制にする小料理屋・居酒屋が増加しています。
おおっ、これは朗報です。浦島F爺は、存じませんでした。当ブログでも話題にしていますがhttps://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1199.html、「お通し」「突き出し」廃止の動きhttps://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1213.htmlがあるのですね。
東京都区部以外の地域の状況を知りたいものです。
>ある社会の成員らの生活の有機的な総体が、文化であると解します。」
文末に「閉じる鉤括弧」がありますが、対応する「開く鉤括弧」はどこにあるのでしょうか。意味不明で途方に暮れます。
今のところ、神谷俊成さんのお考えになる「文化」の定義が、全く把握できません。
《もしかして「社会」と呼ぶべきものを「文化」とも呼んでいらっしゃるのではないか》
とも思いますが、確信はありません。もっと、遥かに短い表現で定義していただけませんか。
神谷俊成さんの【文化の定義】が分らないため、その先の【論点】以下の部分は全く理解不能です。
前回と前々回のコメントに比べると読みやすく分りやすくなっていますが、今のところ相互理解には程遠い段階です。
もう一度書き直してみますか。それとも、ここで中止しますか。
>私が子供であった時分、同級生ないし周囲の大人達が、「ある母子家庭が、上記の1〜4のいずれに該当するか」ということについて話しているのを聞いた記憶がありません。すなわち、「(殆ど)誰も、ある子供が父無し子であるか否か」を、気にしてはいなかった、と言うことができます。「あの家は片親だから云々」といった侮蔑の言葉は、耳にしたことがありません。無論、母子家庭それ自体を蔑む者、および母子家庭に育った者を「不幸」とみなす者も、記憶にあるかぎり、周囲にはおりませんでした。
F爺が大学生になるまでの秋田にも東京にも、「片親」「戸籍上の父親がシベリアに抑留中に生まれた子」「両親とも日本人なのに見るからに混血の子」などは、大人同士の会話で時折聞くものでしたよ。中学生や高校生向けの雑誌にも、何号かに一篇ぐらい
〈片親の子の悩みに答えるページ〉
があったのを憶えています。
(残念ながら、雑誌の名前も、いつのことだったのかも、憶えていません)
《片親の子って、経済的にも大変だし、就職にも苦労するんだなあ》
と同情し、
《自分は、片親でなくて運が好いのだ》
とも思いました。
因みにF坊やの周囲では、母子家庭の子、父子家庭の子、両親ともいない子が珍しくありませんでした。敗戦直後って、そういうものだったのです。
F坊やは、他所の子の親に
「父親は、いるのか」
と質問されたことは一度もありませんが、優しく、笑顔で
「F君のお父さんは、どんなお仕事をしているの↗」
とは、しょっちゅう訊かれました。片親か否かを探ろうとしていたことは、少し大きくなってから理解できました。
日本にも、時代により地域によっては、現在の回教圏とさほど違わない状況があったのです。
>これより先、論ずる範囲を「日本の他、ごく限られた国と地域」に限定する旨、お断りしておきます。世界中のあらゆる国と地域について論じることは、私の手に余りますゆえ、ご了承いただきたく存じます。
「ごく限られた国と地域」というのは、どこの国と地域のことなのでしようか。この表現では、何も分かりませんよ。
>「文化は常に、近代的価値への志向と、我々社会の成員が歴史的に受継した伝統とのあいだの絶えざる摩擦のうえに成立しているものと考えます。我々は、かかる摩擦を経るうちに、文化の構成要素の一部を「因襲」として文化から徐々に排除してゆきます。
「閉じる鉤括弧」( 」 )が一つ抜けているため意味不明になってしまっています。次のご投稿で補ってください。
なお、文化に「常に、近代的価値への志向」があるというお考えは、F爺にとっては、奇異です。そうではない文化を多数見て来たのです。上に書いた「ごく限られた国と地域」がどこのことなのか分らないと、相互理解は成立しません。
>かつては家庭や学校にて左利きの子供を右利きに矯正することはありふれたことでしたが、近年ではこの習慣は廃れつつあります。この背景には、脳科学の研究成果の他、PCの普及により、手書きで文字を書く機会が減少したことなどがあると考えられます。
茶色の文字にした部分には、首を傾げます。因果関係があるとは、F爺には考えられません。箸を右手で使うか左手で使うかは、パソコンの普及とは無関係だと思います。
>具体例2.小料理屋・居酒屋での「お通し」「突き出し」
もともと、「注文したわけでもないものに対価を支払わなければならないのはおかしい」と述べる客は少なくありませんでした。
(・・・)
2022年現在、東京都区部では、お通しを廃止するか、注文制にする小料理屋・居酒屋が増加しています。
おおっ、これは朗報です。浦島F爺は、存じませんでした。当ブログでも話題にしていますがhttps://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1199.html、「お通し」「突き出し」廃止の動きhttps://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1213.htmlがあるのですね。
東京都区部以外の地域の状況を知りたいものです。
>ある社会の成員らの生活の有機的な総体が、文化であると解します。」
文末に「閉じる鉤括弧」がありますが、対応する「開く鉤括弧」はどこにあるのでしょうか。意味不明で途方に暮れます。
今のところ、神谷俊成さんのお考えになる「文化」の定義が、全く把握できません。
《もしかして「社会」と呼ぶべきものを「文化」とも呼んでいらっしゃるのではないか》
とも思いますが、確信はありません。もっと、遥かに短い表現で定義していただけませんか。
神谷俊成さんの【文化の定義】が分らないため、その先の【論点】以下の部分は全く理解不能です。
前回と前々回のコメントに比べると読みやすく分りやすくなっていますが、今のところ相互理解には程遠い段階です。
もう一度書き直してみますか。それとも、ここで中止しますか。
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
Re: ご指摘いただいた点につき回答致します。
「神谷俊成」殿
これまでの交信の結果、
【鉤括弧の使い方を全くご存じないこと】
【過剰敬語、誤用敬語、超・過剰謙譲語を飽くまでも使い続けるという確固たる意志があること】
【物事を簡潔に分りやすく表現する意思も能力も持ち合わせていらっしゃらないこと】
【〈「文化」という言葉のご自身の定義を簡潔に示して欲しい〉というF爺の要望を完全に無視して、長々と、ぐだぐだと、執拗に、これでもかとばかり、何十行にも亙る文字列を並べ立てて〈T.S.Eliotの他、M.J.Oakeshott、M.Polanyiなどの論も見直しつつ、改めて「文化とは何か」という問いに取り組む所存〉でいらっしゃること】
【その際に、〈上記三名が論じているのは英語の「culture」であって日本語の「文化」ではない〉ことの認識が無いこと】
【その「議論」がこの記事の内容とは無関係であることの認識さえも無いこと】
【〈「ごく限られた国と地域」というのは、どこの国と地域のことなのでしょうか。この表現では、何も分かりませんよ〉というF爺の質問に対して、「具体的な国名・地域名を挙げる意思が無い」ばかりか、11もの条件を満たす国をF爺が自分で調べることを望んでいらっしゃること】
などが分りました。
この状況では、これ以上、交信を続ける意味はありません。当ブログでは、運営者に時間と労力を無駄に消費させることを意図したコメントは、受け付けないのです。
なお、
〈これまでに「神谷俊成」名義で投稿なさったコメントの内容は、一切信用できない〉
という結論に達したことを申し添えておきます。
言わずもがなですが、今回のコメントも、非表示のままとします。
これまでの交信の結果、
【鉤括弧の使い方を全くご存じないこと】
【過剰敬語、誤用敬語、超・過剰謙譲語を飽くまでも使い続けるという確固たる意志があること】
【物事を簡潔に分りやすく表現する意思も能力も持ち合わせていらっしゃらないこと】
【〈「文化」という言葉のご自身の定義を簡潔に示して欲しい〉というF爺の要望を完全に無視して、長々と、ぐだぐだと、執拗に、これでもかとばかり、何十行にも亙る文字列を並べ立てて〈T.S.Eliotの他、M.J.Oakeshott、M.Polanyiなどの論も見直しつつ、改めて「文化とは何か」という問いに取り組む所存〉でいらっしゃること】
【その際に、〈上記三名が論じているのは英語の「culture」であって日本語の「文化」ではない〉ことの認識が無いこと】
【その「議論」がこの記事の内容とは無関係であることの認識さえも無いこと】
【〈「ごく限られた国と地域」というのは、どこの国と地域のことなのでしょうか。この表現では、何も分かりませんよ〉というF爺の質問に対して、「具体的な国名・地域名を挙げる意思が無い」ばかりか、11もの条件を満たす国をF爺が自分で調べることを望んでいらっしゃること】
などが分りました。
この状況では、これ以上、交信を続ける意味はありません。当ブログでは、運営者に時間と労力を無駄に消費させることを意図したコメントは、受け付けないのです。
なお、
〈これまでに「神谷俊成」名義で投稿なさったコメントの内容は、一切信用できない〉
という結論に達したことを申し添えておきます。
言わずもがなですが、今回のコメントも、非表示のままとします。
No title
F爺さん 「dakusui」さん
本件は二つの話題に分かれているので、それぞれの考えを投稿いたします。
加えて、F爺さんがお求めになっている感想ではありませんが、F爺さんが既に縁切り状を出している「神谷俊成」氏の主張についても、個人的に思うところがあるので、意見を述べております。
F爺さんの自殺したご友人について
時間をかけて「生みの母親を探し求め」た理由を想像しただけでも悲しくなります。
匿名出産で産まれた子が、実の親を知っている人がいるのに、法的に知れないことの残酷さは考えていましたが、
そもそも「親から望まれずに生まれてきた」ことが、どれだけ子にとって過酷なのか、痛感しました。
一点質問なのですが、そのF爺さんのご友人は、両親共に不明だったということは、日本における児童養護施設の様なところで育ったのでしょうか。それとも、養親に引き取られて育てられたのでしょうか。
「コメント交信に書かなかったこと」を読めば、悲惨な環境であったことは察せますが、回教社会での父無し子がどういった環境で育てられるのか理解を深めたいので、もしよろしければご回答をお願いいたします。
F爺さんと「dakusui」さんの交信が噛み合っていない点について
F爺さんが検証のしようがない、私の主観に基づく推測なので、削除しようか悩みました。
ですが、少しでもすれ違いの解消の一助になればと思い投稿いたします。
慈恵病院は2007年の5月10日から現在まで「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を運用し続けています。
2014年には乳児の死体が「こうのとりのゆりかご」に遺棄される事件もありましたが、それでも止めることなく続けるということは、並大抵の覚悟を持ってやれるものではないでしょうし、こういった一連の活動に対して、「dakusui」さんが個人的に「敬意を払うべき」とお思いになる心情は理解出来ます。
もちろん、F爺さんにも「敬意を払うべき」と述べていた場合は別ですが。
「dakusui」さんのコメントは、どちらにもとれます。
私も最初は、「dakusui」さんがF爺さんに同意を求める意図で書いているのだと思いました。
ですが、もし「dakusui」さんが、単にご自身の心情を述べたつもりで書いたのだとしたら、
F爺さんの「賛同できない考え方に「敬意を払う」ことは出来ません」を、「dakusui」さんは、その点について言及されると予想していなかったために、
「自分の個人的な蓮田院長に対する敬意まで否定された」と思い込んでしまった可能性があると考えられます。
(F爺さんはそんなことは少しも書いていないのですが)
その後の、
> 首尾一貫した倫理に基づく考えなどには、敬意を払うべき時はあるとも考えています。
という返信も、「「首尾一貫した倫理に基づく考え」であれば、F爺さんも敬意を払うべきだ」という意味ではなく、
単に「自分の蓮田院長に対する敬意まで否定されたくない」という思いで書いたのだとしたら、この様な話の噛み合わない交信になるのかなと思いました。
私の経験上の話ですが、こういったすれ違いが起きる時は、どちらかが言葉に裏があると思い込んでしまうことが原因の場合がよくあります。
F爺さんは、言葉の含蓄を重んじていらっしゃる方ですから、「賛同できない考え方に「敬意を払う」ことは出来ません」という文章には、文面から読み取れる以上の意味は含んでいないと私には分かりますが、「dakusui」さんは深読みをしてしまったのだと思います。
全然の的外れである可能性もありますが、「dakusui」さんがこのコメントに言及をしてくださることを期待しております。
「神谷俊成」氏の主張について
私も信用が出来ません。
例えば、
> 母子家庭に育った者を「不幸」とみなす者も、記憶にあるかぎり、周囲にはおりませんでした。
ですが、仮に事実だとしても、小説や漫画などの物語では、「母子家庭」や「捨て子」は登場人物が辛い境遇で育ったことを示し、読者の同情を得るための設定としてよく用いられています。
加えて、そういった話であっても、父親は居なくても母親が立派な人で、なんとか困窮にあえぐことなく愛情を受けて育てられたり、両親が分からない「捨て子」でも、運良く優しい人の下で育てられたり…と、自身の人生を絶望しないで済む程度の境遇であることがほとんどです。
稀に「捨て子」であり、何も幸運な巡り合わせもない登場人物が居ることもありますが、大概周囲から暴力を受けるなど、酷い目に遭わされます。
なので、「多くの日本人は、「父無し子の幸福な人生」を容易に観念」(引用中にある「観念」という語が、「諦める」という意味なのか、「想像」と同義の意味だと思って用いているのか私には断定出来ませんが、今回は後者だと仮定します)出来るとは到底思えません。
今回の話題にあるF爺さんのご友人は、「父無し子だけど、母親が人格者で、苦労して女手一つで育ててくれた」という、物語によくある人生ではなく、そういった架空の世界ですら滅多に題材にしないくらいの、凄惨な人生です。
その様な生い立ちの人と全く関わったことが無いとしても、境遇を憐れむことは多くの日本人にとって可能なはずです。
本件は二つの話題に分かれているので、それぞれの考えを投稿いたします。
加えて、F爺さんがお求めになっている感想ではありませんが、F爺さんが既に縁切り状を出している「神谷俊成」氏の主張についても、個人的に思うところがあるので、意見を述べております。
F爺さんの自殺したご友人について
時間をかけて「生みの母親を探し求め」た理由を想像しただけでも悲しくなります。
匿名出産で産まれた子が、実の親を知っている人がいるのに、法的に知れないことの残酷さは考えていましたが、
そもそも「親から望まれずに生まれてきた」ことが、どれだけ子にとって過酷なのか、痛感しました。
一点質問なのですが、そのF爺さんのご友人は、両親共に不明だったということは、日本における児童養護施設の様なところで育ったのでしょうか。それとも、養親に引き取られて育てられたのでしょうか。
「コメント交信に書かなかったこと」を読めば、悲惨な環境であったことは察せますが、回教社会での父無し子がどういった環境で育てられるのか理解を深めたいので、もしよろしければご回答をお願いいたします。
F爺さんと「dakusui」さんの交信が噛み合っていない点について
F爺さんが検証のしようがない、私の主観に基づく推測なので、削除しようか悩みました。
ですが、少しでもすれ違いの解消の一助になればと思い投稿いたします。
慈恵病院は2007年の5月10日から現在まで「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を運用し続けています。
2014年には乳児の死体が「こうのとりのゆりかご」に遺棄される事件もありましたが、それでも止めることなく続けるということは、並大抵の覚悟を持ってやれるものではないでしょうし、こういった一連の活動に対して、「dakusui」さんが個人的に「敬意を払うべき」とお思いになる心情は理解出来ます。
もちろん、F爺さんにも「敬意を払うべき」と述べていた場合は別ですが。
「dakusui」さんのコメントは、どちらにもとれます。
私も最初は、「dakusui」さんがF爺さんに同意を求める意図で書いているのだと思いました。
ですが、もし「dakusui」さんが、単にご自身の心情を述べたつもりで書いたのだとしたら、
F爺さんの「賛同できない考え方に「敬意を払う」ことは出来ません」を、「dakusui」さんは、その点について言及されると予想していなかったために、
「自分の個人的な蓮田院長に対する敬意まで否定された」と思い込んでしまった可能性があると考えられます。
(F爺さんはそんなことは少しも書いていないのですが)
その後の、
> 首尾一貫した倫理に基づく考えなどには、敬意を払うべき時はあるとも考えています。
という返信も、「「首尾一貫した倫理に基づく考え」であれば、F爺さんも敬意を払うべきだ」という意味ではなく、
単に「自分の蓮田院長に対する敬意まで否定されたくない」という思いで書いたのだとしたら、この様な話の噛み合わない交信になるのかなと思いました。
私の経験上の話ですが、こういったすれ違いが起きる時は、どちらかが言葉に裏があると思い込んでしまうことが原因の場合がよくあります。
F爺さんは、言葉の含蓄を重んじていらっしゃる方ですから、「賛同できない考え方に「敬意を払う」ことは出来ません」という文章には、文面から読み取れる以上の意味は含んでいないと私には分かりますが、「dakusui」さんは深読みをしてしまったのだと思います。
全然の的外れである可能性もありますが、「dakusui」さんがこのコメントに言及をしてくださることを期待しております。
「神谷俊成」氏の主張について
私も信用が出来ません。
例えば、
> 母子家庭に育った者を「不幸」とみなす者も、記憶にあるかぎり、周囲にはおりませんでした。
ですが、仮に事実だとしても、小説や漫画などの物語では、「母子家庭」や「捨て子」は登場人物が辛い境遇で育ったことを示し、読者の同情を得るための設定としてよく用いられています。
加えて、そういった話であっても、父親は居なくても母親が立派な人で、なんとか困窮にあえぐことなく愛情を受けて育てられたり、両親が分からない「捨て子」でも、運良く優しい人の下で育てられたり…と、自身の人生を絶望しないで済む程度の境遇であることがほとんどです。
稀に「捨て子」であり、何も幸運な巡り合わせもない登場人物が居ることもありますが、大概周囲から暴力を受けるなど、酷い目に遭わされます。
なので、「多くの日本人は、「父無し子の幸福な人生」を容易に観念」(引用中にある「観念」という語が、「諦める」という意味なのか、「想像」と同義の意味だと思って用いているのか私には断定出来ませんが、今回は後者だと仮定します)出来るとは到底思えません。
今回の話題にあるF爺さんのご友人は、「父無し子だけど、母親が人格者で、苦労して女手一つで育ててくれた」という、物語によくある人生ではなく、そういった架空の世界ですら滅多に題材にしないくらいの、凄惨な人生です。
その様な生い立ちの人と全く関わったことが無いとしても、境遇を憐れむことは多くの日本人にとって可能なはずです。
Re: No title
「883s」さん
「dakusui」さんとF爺の二人に宛てたコメント、ありがとうございます。
>回教社会での父無し子がどういった環境で育てられるのか理解を深めたいので、もしよろしければご回答をお願いいたします。
説明は、長くなります。コメント欄での返信に代えて記事を立てることにします。早ければ明日、遅くとも明後日までには掲載します。他の二点についても言及する心積もりです。
その間に「dakusui」さんから何らかの反応があれば、そのことも加味するかもしれません。
「dakusui」さんとF爺の二人に宛てたコメント、ありがとうございます。
>回教社会での父無し子がどういった環境で育てられるのか理解を深めたいので、もしよろしければご回答をお願いいたします。
説明は、長くなります。コメント欄での返信に代えて記事を立てることにします。早ければ明日、遅くとも明後日までには掲載します。他の二点についても言及する心積もりです。
その間に「dakusui」さんから何らかの反応があれば、そのことも加味するかもしれません。
Re: Re: No title
F爺さん
ありがとうございます。
お待ちしております。
ありがとうございます。
お待ちしております。
2022/02/07(11:54) のコメントを修正いたしました
F爺さん
「こうのとりのゆりかご」の運用開始年ですが、2006年ではなく2007年でした。
確認不足で大変申し訳ございません。
勝手ですがコメントを編集しましたので、お手数をお掛けいたしますが、許可をお願いいたします。他の箇所には手を加えておりません。
「こうのとりのゆりかご」の運用開始年ですが、2006年ではなく2007年でした。
確認不足で大変申し訳ございません。
勝手ですがコメントを編集しましたので、お手数をお掛けいたしますが、許可をお願いいたします。他の箇所には手を加えておりません。
Re: 2022/02/07(11:54) のコメントを修正いたしました
「883s」さん
コメントの修正、承りました。再表示しましたので、ご確認ください。
コメントの修正、承りました。再表示しましたので、ご確認ください。
Re: Re: 2022/02/07(11:54) のコメントを修正いたしました
F爺さん
ありがとうございます。確認いたしました。
ありがとうございます。確認いたしました。