鶏(にわとり)に食べさせるための蝗(いなご)集め
- 2022/08/24
- 18:00
今日の二本目の記事です。
「動物の命」シリーズを続けます。F坊やが「命を奪っても心が痛まない」虫をいくつか列挙します。
蠅(はえ)
幼児の頃
「蠅は、牛糞や馬糞などの汚いものに止まって黴菌(ばいきん)を運ぶから、病気の元になる」
と教わりました。
山奥の集落では牛糞も馬糞もそこら辺にある時代でした。
F坊やが物心ついた頃には、「蠅取り紙」というものがあって、天井から吊るしておくとねばねばした表面に蠅がたくさんくっ付くものでした。
「蠅叩き」という道具がどこの家にもありました。それを使って、壁や食卓に止まっている蠅を見つけ次第ばちばち潰すことも、子供にも出来る日常の「普通の動作」のうちでした。
何年か経つと、牛糞も馬糞も滅多に見ないものになりました。殺虫剤を散布するのが普通になり、「蠅叩き」も「蠅取り紙」も昔語りです。
蚊
蚊は、出来れば刺されないうちに、叩き潰すものでした。刺されたら痒(かゆ)いし、病気を感染(うつ)されることも多いと教わりました。これには、一も二も無く賛成。
蚤(のみ)、虱(しらみ)、南京虫・・・
蚤に虱に南京虫に・・・「血を吸う虫」は、見つけ次第、容赦なく潰します。虫としては「食料を求めているだけ」だとしても、こちらとしては正当防衛です。
蝗(いなご)
蝗は・・・人間を刺しません。馬糞などに集(たか)った後で食べ物に止まることもありません。
その意味では「直接の実害は無い」ように見えました。
でも、周りの大人たちがこう言っていました。
【鶏は、鳥小屋に閉じ込められているから、自分で田圃に行って蝗を捕まえることが出来ない。飼っている人間が栄養のある餌をやらないと卵が産めない】
【水を張ったままの田圃に連れて行っても、鶏は、泳げないし、そこを歩いたり走ったりも出来ない】
【水を落としたばかりの田圃では、ぬかるみに足を取られてしまう】
【田圃の泥が乾くまで待っていたら、折角の稲穂を全部蝗に食われてしまう。人間の食べるものが無くなる】
【野山の虫と違って蝗は、人間の食糧を奪う敵。害虫や害獣を可哀想だと思っていたら自分の食べるものが無くなってしまう】
【田圃の蝗を取って集めて来れば、その田圃の持ち主のお百姓さんにも善いことをしてあげたことになるし、鶏にも餌をやることが出来る。毎日卵を産んでもらいたいと思ったら、せっせと蝗を集めることだ。鶏は、死んだ蝗も食べるけれど、生きているのを捕まえるのが大好き】
確かに、そのころ飼っていた鶏は、生きている蝗をやると、大喜びで走り廻って、一匹残さず食べていました。
蚊や蠅ほど簡単ではありませんでしたが、子供の頭でも、
【飼っている鶏に生餌(いきえ)をやるのは、悪いことではない】
という結論になりました。
余談
「いただきます」
食卓での「いただきます」という挨拶が
【動植物の命をいただいて自分が生き延びることらしい】
と早とちりで理解したのも、その頃です。
【「いただく」は、「もらう」の敬語だ】
としか理解していませんでした。
何年か後に
【「いただく」が古くは「頭の上に載せる」という意味だった】
ことを知って、
《あれっ!?》
と思い、そのうちに
【食料にされる動植物は、好き好んで命を捧げてくれたわけじゃない】
と気付きました。
さらに数年経って、
【食前の挨拶としての「いただきます」は、大昔からあるものではない】
【それが秋田諸語にも入り込んだのは、標準語教育が進んでからのはずだ】
などのことに思い至ってからは、
《そんな単純なことじゃなかったんだ》
と認識を変えました。
「動物の命」シリーズを続けます。F坊やが「命を奪っても心が痛まない」虫をいくつか列挙します。
蠅(はえ)
幼児の頃
「蠅は、牛糞や馬糞などの汚いものに止まって黴菌(ばいきん)を運ぶから、病気の元になる」
と教わりました。
山奥の集落では牛糞も馬糞もそこら辺にある時代でした。
F坊やが物心ついた頃には、「蠅取り紙」というものがあって、天井から吊るしておくとねばねばした表面に蠅がたくさんくっ付くものでした。
「蠅叩き」という道具がどこの家にもありました。それを使って、壁や食卓に止まっている蠅を見つけ次第ばちばち潰すことも、子供にも出来る日常の「普通の動作」のうちでした。
何年か経つと、牛糞も馬糞も滅多に見ないものになりました。殺虫剤を散布するのが普通になり、「蠅叩き」も「蠅取り紙」も昔語りです。
蚊
蚊は、出来れば刺されないうちに、叩き潰すものでした。刺されたら痒(かゆ)いし、病気を感染(うつ)されることも多いと教わりました。これには、一も二も無く賛成。
蚤(のみ)、虱(しらみ)、南京虫・・・
蚤に虱に南京虫に・・・「血を吸う虫」は、見つけ次第、容赦なく潰します。虫としては「食料を求めているだけ」だとしても、こちらとしては正当防衛です。
蝗(いなご)
蝗は・・・人間を刺しません。馬糞などに集(たか)った後で食べ物に止まることもありません。
その意味では「直接の実害は無い」ように見えました。
でも、周りの大人たちがこう言っていました。
【鶏は、鳥小屋に閉じ込められているから、自分で田圃に行って蝗を捕まえることが出来ない。飼っている人間が栄養のある餌をやらないと卵が産めない】
【水を張ったままの田圃に連れて行っても、鶏は、泳げないし、そこを歩いたり走ったりも出来ない】
【水を落としたばかりの田圃では、ぬかるみに足を取られてしまう】
【田圃の泥が乾くまで待っていたら、折角の稲穂を全部蝗に食われてしまう。人間の食べるものが無くなる】
【野山の虫と違って蝗は、人間の食糧を奪う敵。害虫や害獣を可哀想だと思っていたら自分の食べるものが無くなってしまう】
【田圃の蝗を取って集めて来れば、その田圃の持ち主のお百姓さんにも善いことをしてあげたことになるし、鶏にも餌をやることが出来る。毎日卵を産んでもらいたいと思ったら、せっせと蝗を集めることだ。鶏は、死んだ蝗も食べるけれど、生きているのを捕まえるのが大好き】
確かに、そのころ飼っていた鶏は、生きている蝗をやると、大喜びで走り廻って、一匹残さず食べていました。
蚊や蠅ほど簡単ではありませんでしたが、子供の頭でも、
【飼っている鶏に生餌(いきえ)をやるのは、悪いことではない】
という結論になりました。
余談
「いただきます」
食卓での「いただきます」という挨拶が
【動植物の命をいただいて自分が生き延びることらしい】
と早とちりで理解したのも、その頃です。
【「いただく」は、「もらう」の敬語だ】
としか理解していませんでした。
何年か後に
【「いただく」が古くは「頭の上に載せる」という意味だった】
ことを知って、
《あれっ!?》
と思い、そのうちに
【食料にされる動植物は、好き好んで命を捧げてくれたわけじゃない】
と気付きました。
さらに数年経って、
【食前の挨拶としての「いただきます」は、大昔からあるものではない】
【それが秋田諸語にも入り込んだのは、標準語教育が進んでからのはずだ】
などのことに思い至ってからは、
《そんな単純なことじゃなかったんだ》
と認識を変えました。