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Re: P入声
粉雪さん
ご投稿に添えてあるリンクは、今回の論題とも、これまでにこのブログに掲載したどの記事とも、何の関係もありません。コメントは、一部だけの表示は出来ませんので、非表示とします。
「「十」に例外的な「じゅっ」という形が現れるのは、あまりに日常的な字だからではないでしょうか。」
違います。使用頻度が高いことと誤認・誤解・誤用が広まることとの間に何の関係もありません。
「「じっ」を強制されたくありません」
強制しようなどと誰も言っていませんよ。そういう言い方はおやめください。
「にほん」と「にっぽん」の「どちらかを「正しい」と決めつけて強制を行う」べきだなどと誰かが主張しているのですか。
今回のご投稿、F爺には全く理解できないことばかりです。
ご投稿に添えてあるリンクは、今回の論題とも、これまでにこのブログに掲載したどの記事とも、何の関係もありません。コメントは、一部だけの表示は出来ませんので、非表示とします。
「「十」に例外的な「じゅっ」という形が現れるのは、あまりに日常的な字だからではないでしょうか。」
違います。使用頻度が高いことと誤認・誤解・誤用が広まることとの間に何の関係もありません。
「「じっ」を強制されたくありません」
強制しようなどと誰も言っていませんよ。そういう言い方はおやめください。
「にほん」と「にっぽん」の「どちらかを「正しい」と決めつけて強制を行う」べきだなどと誰かが主張しているのですか。
今回のご投稿、F爺には全く理解できないことばかりです。
発音に関する思い出
小島剛一様
>「十」という漢字には、歴史的に「じゅう」と「じっ」と二通りの音読みがあります。元々「じゅっ」という読みはありません。
類似の読み方をする漢字と比較して出した、小島様の筋の通った結論に納得しました。「10km」を「じっキロメートル」、「十手」を「じって」と発音するS.Solaも、小島様の意見に賛成します。
昨年の夏に四国でお会いした時、現在地点から次の目的地までの距離を求めた小島様が、数字の「十」を「じっ」と発音するのを隣で聞いて、「昔ながらの、綺麗な日本語だなぁ」と思いました。一方で、最近の日本のアナウンサーやナレーターは、軒並み「じゅっ」と発音する人ばかりで、このままでは「じっ」という正しい発音が消えてしまうのではないかと心配しています。
私が高校生だった頃、私が国語の授業で教科書を音読した際、「十〇(〇に入る言葉は、何かの単位だった筈ですが、もう思い出せません)」を「じっ○○」と読んで教室内がざわついたことがありました。幸運なことに、国語の先生が「『十』の読み方は本来、『じゅう』と『じっ』が正しい。S.Sola君の読み方は、間違っていない」と説明して下さったお陰で、すぐに静かになりました。
この出来事から7、8年経過しましたが、S.Solaと同年代の友人・知人は皆、「十」を「じゅっ」と発音しており、普段から「じっ」と発音する人には、未だ出会っていません。
>「十」という漢字には、歴史的に「じゅう」と「じっ」と二通りの音読みがあります。元々「じゅっ」という読みはありません。
類似の読み方をする漢字と比較して出した、小島様の筋の通った結論に納得しました。「10km」を「じっキロメートル」、「十手」を「じって」と発音するS.Solaも、小島様の意見に賛成します。
昨年の夏に四国でお会いした時、現在地点から次の目的地までの距離を求めた小島様が、数字の「十」を「じっ」と発音するのを隣で聞いて、「昔ながらの、綺麗な日本語だなぁ」と思いました。一方で、最近の日本のアナウンサーやナレーターは、軒並み「じゅっ」と発音する人ばかりで、このままでは「じっ」という正しい発音が消えてしまうのではないかと心配しています。
私が高校生だった頃、私が国語の授業で教科書を音読した際、「十〇(〇に入る言葉は、何かの単位だった筈ですが、もう思い出せません)」を「じっ○○」と読んで教室内がざわついたことがありました。幸運なことに、国語の先生が「『十』の読み方は本来、『じゅう』と『じっ』が正しい。S.Sola君の読み方は、間違っていない」と説明して下さったお陰で、すぐに静かになりました。
この出来事から7、8年経過しましたが、S.Solaと同年代の友人・知人は皆、「十」を「じゅっ」と発音しており、普段から「じっ」と発音する人には、未だ出会っていません。
Re: 発音に関する思い出
S.Sola君
>幸運なことに、国語の先生が「『十』の読み方は本来、『じゅう』と『じっ』が正しい。S.Sola君の読み方は、間違っていない」と説明して下さったお陰で、すぐに静かになりました。
その先生は、日本語史と現代の日本語に関して、まともな知識と教養を身に着けていましたね。そうではない国語教師を散見するので、F爺は遠くから憂えています。
誤った解釈から生まれた(= 本来は、直ちに誤用として斥(しりぞ)けるべき)発音が主流をなしてしまっているというのは、奇妙なことです。規範意識というものが今の日本では希薄になっているのでしょうか。
>幸運なことに、国語の先生が「『十』の読み方は本来、『じゅう』と『じっ』が正しい。S.Sola君の読み方は、間違っていない」と説明して下さったお陰で、すぐに静かになりました。
その先生は、日本語史と現代の日本語に関して、まともな知識と教養を身に着けていましたね。そうではない国語教師を散見するので、F爺は遠くから憂えています。
誤った解釈から生まれた(= 本来は、直ちに誤用として斥(しりぞ)けるべき)発音が主流をなしてしまっているというのは、奇妙なことです。規範意識というものが今の日本では希薄になっているのでしょうか。
十回
F爺様
私が小学生だったころ、夏の全国高校野球大会の中継で、延長戦に入った時、
NHKのアナウンサーが、「延長十回(じっかい)の表~」と発音したのを聞いて、あれ、っと思いました。
その時は、
「正しくは、じっかい、と発音するのかな。でも、周りの人は皆、じゅっかい、とか、じゅっぽん、とか言っているのは、訛っているからなのかな」
と、思っていました。
その後も、F爺様以外に、「十本(じっぽん)、十分(じっぷん)」と発音する人には会ったことがありませんでした。
かく言う私も、意識しないと、「じゅっぽん、じゅっぷん」と言ってしまっています。
今後、気を付けていかなければならないことだな、と学ぶことができました。ありがとうございます。
私が小学生だったころ、夏の全国高校野球大会の中継で、延長戦に入った時、
NHKのアナウンサーが、「延長十回(じっかい)の表~」と発音したのを聞いて、あれ、っと思いました。
その時は、
「正しくは、じっかい、と発音するのかな。でも、周りの人は皆、じゅっかい、とか、じゅっぽん、とか言っているのは、訛っているからなのかな」
と、思っていました。
その後も、F爺様以外に、「十本(じっぽん)、十分(じっぷん)」と発音する人には会ったことがありませんでした。
かく言う私も、意識しないと、「じゅっぽん、じゅっぷん」と言ってしまっています。
今後、気を付けていかなければならないことだな、と学ぶことができました。ありがとうございます。
Re: 十回
「106」さん
50年前までのNHKのアナウンサーは、皆、「十回(じっかい)の表」「十回(じっかい)の裏」と言っていたと憶えています。規範意識がはっきりしていたのです。今のNHKは、滅茶苦茶です。
秋田語でも「十回」や「十階」は「じっかい」に対応する発音なので、F爺にとっては標準語を習得する際に「苦労しないで済んだ」部分です。
想い起してみると、東京に住んでいた三年と数ヶ月の間、福島県出身の人と親しく話す機会は殆どありませんでした。秋田発上野行きや上野発秋田行きの夜行列車に福島県の人が乗ることも、まず無かったはずです。あの頃、福島県人が「十回」をどう発音していたのか、全然記憶にありません。
近日中に漢字の「十」の読み方に関する記事を二篇は書くことにします。固有名詞の「十返舎一九(じっぺんしゃいっく)」と歴史上存在した物品の名である「十手(じって)」を主題にします。掲載予定の記事が立て込んでいるので、何日後になるか、すぐには決められませんが。
50年前までのNHKのアナウンサーは、皆、「十回(じっかい)の表」「十回(じっかい)の裏」と言っていたと憶えています。規範意識がはっきりしていたのです。今のNHKは、滅茶苦茶です。
秋田語でも「十回」や「十階」は「じっかい」に対応する発音なので、F爺にとっては標準語を習得する際に「苦労しないで済んだ」部分です。
想い起してみると、東京に住んでいた三年と数ヶ月の間、福島県出身の人と親しく話す機会は殆どありませんでした。秋田発上野行きや上野発秋田行きの夜行列車に福島県の人が乗ることも、まず無かったはずです。あの頃、福島県人が「十回」をどう発音していたのか、全然記憶にありません。
近日中に漢字の「十」の読み方に関する記事を二篇は書くことにします。固有名詞の「十返舎一九(じっぺんしゃいっく)」と歴史上存在した物品の名である「十手(じって)」を主題にします。掲載予定の記事が立て込んでいるので、何日後になるか、すぐには決められませんが。
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Re: 小学校では「じっぽん」と教わった
泉正弘さん
F爺には「千里眼」とかいうものは具わっていません。
年齢を明らかになさっていない読者のコメントに
「私が小学一年生のとき」
と書いてあっても、いつの時代のことなのかF爺には知る術がありません。情報としての価値が無いのです。
今回のコメントは非表示のままとします。ご理解をお願いします。
F爺には「千里眼」とかいうものは具わっていません。
年齢を明らかになさっていない読者のコメントに
「私が小学一年生のとき」
と書いてあっても、いつの時代のことなのかF爺には知る術がありません。情報としての価値が無いのです。
今回のコメントは非表示のままとします。ご理解をお願いします。
失礼いたしました
>年齢を明らかになさっていない読者のコメントに
「私が小学一年生のとき」
と書いてあっても、いつの時代のことなのかF爺には知る術がありません。
これは確かにおっしゃるとおりです。大変失礼いたしました。
私が小学一年生だったのは1988年のことです。
【以下、言い訳】
生まれ年を全く明らかにしていない人が、「私が小学一年生だったとき」とか「子供のころ」と書いていた文を読んで、「これじゃあいつの時代のことなのか読者にはわからないじゃないか」と不満を持つことは私にもよくあるのですが、あろうことか私自身が同じ過ちをしてしまいました。迂闊でした。
どうしてこうなったのか省みると、どうもわずかであっても個人的な情報を発信することに抵抗を感じていたようです。しかし小学一年生が具体的にいつのことだったのかという情報を気にするのは、冷静に考えてみて、明らかに過剰な心配ですね。何かおかしな習慣がネット上で身に付いてしまい、結果として読む人に対する配慮がおろそかになってしまったようです。今回のご指摘で、それに気づかされました。
「私が小学一年生のとき」
と書いてあっても、いつの時代のことなのかF爺には知る術がありません。
これは確かにおっしゃるとおりです。大変失礼いたしました。
私が小学一年生だったのは1988年のことです。
【以下、言い訳】
生まれ年を全く明らかにしていない人が、「私が小学一年生だったとき」とか「子供のころ」と書いていた文を読んで、「これじゃあいつの時代のことなのか読者にはわからないじゃないか」と不満を持つことは私にもよくあるのですが、あろうことか私自身が同じ過ちをしてしまいました。迂闊でした。
どうしてこうなったのか省みると、どうもわずかであっても個人的な情報を発信することに抵抗を感じていたようです。しかし小学一年生が具体的にいつのことだったのかという情報を気にするのは、冷静に考えてみて、明らかに過剰な心配ですね。何かおかしな習慣がネット上で身に付いてしまい、結果として読む人に対する配慮がおろそかになってしまったようです。今回のご指摘で、それに気づかされました。