コメント
よく分かりました!
懇切な解説、ありがとうございました!
「よく分からない」のは、私の理解力のせいではなかったと知って、安堵いたしました(笑)。
「よく分からない」のは、私の理解力のせいではなかったと知って、安堵いたしました(笑)。
大家の翻訳
大家と言われる人の翻訳すら、日本語として形を成していないなんて…ビックリしました。
確かに、意味さっぱり分かりません!
けれど理解できない自分に、知識なり、教養なりが足りてないのだわ、と思っていました。
聖書を読んだ時には、普段使わないような日本語であふれていて、
「これ、こういう訳語しかなかったんだろうな」
「ちょっと無理やりな感じするな」
「でもほかに訳しようがなかったんだろうな」
「読み手がいいように解釈するしかないか・・・」と思ったこともあります。
小島先生が、普段気になっているけれど、検証しようがなくてモヤモヤしている言葉の問題を、平易な日本語で、分かりやすく説明して下さると、理解できない自分がいけない!という思いがなくなって、心が軽くなります。
英文法の時制の記事を読んだ時が、そうでした。
きっと読者の皆様も、そういう発見が楽しいのだろうなって思います。
確かに、意味さっぱり分かりません!
けれど理解できない自分に、知識なり、教養なりが足りてないのだわ、と思っていました。
聖書を読んだ時には、普段使わないような日本語であふれていて、
「これ、こういう訳語しかなかったんだろうな」
「ちょっと無理やりな感じするな」
「でもほかに訳しようがなかったんだろうな」
「読み手がいいように解釈するしかないか・・・」と思ったこともあります。
小島先生が、普段気になっているけれど、検証しようがなくてモヤモヤしている言葉の問題を、平易な日本語で、分かりやすく説明して下さると、理解できない自分がいけない!という思いがなくなって、心が軽くなります。
英文法の時制の記事を読んだ時が、そうでした。
きっと読者の皆様も、そういう発見が楽しいのだろうなって思います。
Re: よく分かりました!
馬場伸一さん
キリスト教圏でも『新約聖書』の「○○伝」の第○章の第○○節の引用と言われてすぐにピンと来る人は多くはありません。まして圏外の日本に住んでいる非キリスト教徒の読者に碌な説明もしないで理解してもらおうというのは、無い物ねだりです。
加えて日本語感覚の欠如した翻訳者が文意を把握せずに逐語訳するのですから、どうしようもありません。意味不明の文章は即座に却下する率直さを多くの日本人が身に着けることが必要です。
キリスト教圏でも『新約聖書』の「○○伝」の第○章の第○○節の引用と言われてすぐにピンと来る人は多くはありません。まして圏外の日本に住んでいる非キリスト教徒の読者に碌な説明もしないで理解してもらおうというのは、無い物ねだりです。
加えて日本語感覚の欠如した翻訳者が文意を把握せずに逐語訳するのですから、どうしようもありません。意味不明の文章は即座に却下する率直さを多くの日本人が身に着けることが必要です。
Re: 大家の翻訳
ななさん
>確かに、意味さっぱり分かりません!
けれど理解できない自分に、知識なり、教養なりが足りてないのだわ、と思っていました。
超・謙虚にそう思ってくれる人が多いうちは、似非翻訳者の仕事は楽ですね。
英語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、フランス語などを第一言語として話し読み書きすることの出来る日本人が増えて来ると、これまでの「翻訳の大家」は、みんな化けの皮が剥がれます。そうなった後の状況は、面白くなりますよ。
>確かに、意味さっぱり分かりません!
けれど理解できない自分に、知識なり、教養なりが足りてないのだわ、と思っていました。
超・謙虚にそう思ってくれる人が多いうちは、似非翻訳者の仕事は楽ですね。
英語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、フランス語などを第一言語として話し読み書きすることの出来る日本人が増えて来ると、これまでの「翻訳の大家」は、みんな化けの皮が剥がれます。そうなった後の状況は、面白くなりますよ。
該当箇所の各日本語訳
「ヨハネ伝」の第12章24~25節の箇所ですが、私が所持している日本語訳の聖書ではどうなっているか、確認してみました。以下の聖書は、日本ではどれも容易に入手できます。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(新共同訳。現在、プロテスタントとカトリックを中心に、おそらく日本の教会で最も広く使われている聖書。私の所属する教会でも使っています)
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(口語訳。昔のプロテスタントの教会で広く使われていた聖書)
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(新改訳。福音派など一部のプロテスタントの教会で使われている聖書)
もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。(フランシスコ会聖書研究所訳。カトリック独自の翻訳)
一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(塚本虎二訳。無教会主義の新約聖書の研究者だった塚本虎二による個人訳)
どの聖書も、同じ誤訳をやっています。これでは、聖書の翻訳者は日本語感覚が欠如しているということになりますね。このコメントを書いている時、「私はシャルリー」の誤訳を思い出しましたが、日本では意味が通じなくても、逐語訳こそが正しいという「伝統」でもあるのかと勘繰りたくなります。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(新共同訳。現在、プロテスタントとカトリックを中心に、おそらく日本の教会で最も広く使われている聖書。私の所属する教会でも使っています)
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(口語訳。昔のプロテスタントの教会で広く使われていた聖書)
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(新改訳。福音派など一部のプロテスタントの教会で使われている聖書)
もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。(フランシスコ会聖書研究所訳。カトリック独自の翻訳)
一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(塚本虎二訳。無教会主義の新約聖書の研究者だった塚本虎二による個人訳)
どの聖書も、同じ誤訳をやっています。これでは、聖書の翻訳者は日本語感覚が欠如しているということになりますね。このコメントを書いている時、「私はシャルリー」の誤訳を思い出しましたが、日本では意味が通じなくても、逐語訳こそが正しいという「伝統」でもあるのかと勘繰りたくなります。
Re: 該当箇所の各日本語訳
チョルスさん
「ヨハネ伝」の問題の箇所の五種類の日本語訳のお知らせ、誠にありがとうございます。
大同小異という言葉は、この五種類を形容するためにあるようですね。おっしゃる通り、揃いも揃って、同じ逐語訳を、誤訳を、並べています。
■「一粒の麦」と「麦一粒」の違いが解っていない。
■植物について「死ぬ」と訳して奇妙だと思っていない。
■「死んで実を結ぶ種」など存在しないことに気付いていない。
(「実を結んでから枯れる草」ならありますが)
これだけ並べてみると、恐るべき結論が出て来ます。
「ヨハネ伝」のこの箇所の日本語訳をした日本人翻訳者の誰一人、まともな日本語感覚を具えていない。
従って、日本語訳だけを読んだ人には、何も理解できるはずが無い。
別の恐るべき疑問も出て来ます。
「ヨハネ伝」だけでなく『新約聖書』全体がこんな擬似翻訳だとしたら、そして『旧約聖書』の翻訳も大同小異だとしたら、仮に翻訳者が原文のギリシャ語を正しく理解していたとしても、日本語訳のみを読まされた日本語人に『聖書』の何が、キリスト教の何が、理解できるのでしょうか。
キリスト教信者の読者の方々は、F爺の疑問を読んで、何をお考えになるでしょうか。
「ヨハネ伝」の問題の箇所の五種類の日本語訳のお知らせ、誠にありがとうございます。
大同小異という言葉は、この五種類を形容するためにあるようですね。おっしゃる通り、揃いも揃って、同じ逐語訳を、誤訳を、並べています。
■「一粒の麦」と「麦一粒」の違いが解っていない。
■植物について「死ぬ」と訳して奇妙だと思っていない。
■「死んで実を結ぶ種」など存在しないことに気付いていない。
(「実を結んでから枯れる草」ならありますが)
これだけ並べてみると、恐るべき結論が出て来ます。
「ヨハネ伝」のこの箇所の日本語訳をした日本人翻訳者の誰一人、まともな日本語感覚を具えていない。
従って、日本語訳だけを読んだ人には、何も理解できるはずが無い。
別の恐るべき疑問も出て来ます。
「ヨハネ伝」だけでなく『新約聖書』全体がこんな擬似翻訳だとしたら、そして『旧約聖書』の翻訳も大同小異だとしたら、仮に翻訳者が原文のギリシャ語を正しく理解していたとしても、日本語訳のみを読まされた日本語人に『聖書』の何が、キリスト教の何が、理解できるのでしょうか。
キリスト教信者の読者の方々は、F爺の疑問を読んで、何をお考えになるでしょうか。
該当箇所の他言語訳と原文
前のコメントでは、私の所持している日本語訳の各聖書から引用しましたが、今回は私の所持している日本語以外の聖書(英仏独とギリシャ語の原文)を参照しました。F爺さんも持っていらっしゃるかもしれませんが、これらの聖書も日本で容易に入手できます。
unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains alone; but if it dies, it bears much fruit. (English Standard Version)
unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it priduces many seeds. (New International Version)
si le grain de blé ne tombe en terre et ne meurt, il reste seule; mais s'il meurt, il porte beaucoup de fruit. (LA Sainte BIBLE version Louis Segond 1978)
Wenn das Weizenkorn nicht in die Erde fällt und erstirbt, bleibt es allein; wenn es aber erstirbt bingt es viel Frucht. (Die Bibel nach Martin Luther (1984年改訂))
ἐὰν μὴ ὁ κόκκος τοῦ σίτου πεσὼν εἰς τὴν γῆν ἀποθάνῃ, αὐτὸς μόνος μένει· ἐὰν δὲ ἀποθάνῃ, πολὺν καρπὸν φέρει.
私は、ギリシャ語はほとんど分かりませんが、英仏独の各訳を見る限り、前のコメントで引用した日本語訳もギリシャ語の原文を逐語訳したのでしょう。少なくとも、英独仏の各訳を逐語訳すれば、前のコメントの日本語訳になりますね。ヨーロッパ諸語では「比喩的な表現」とのことで、こういった表現が不自然ではないようですが、日本語にそのまま訳したら意味が成り立ちませんね。聖書を日本語に翻訳した人たちは、この事に疑問を持たなかったのか、不思議に思います。
日本の聖書の研究者は、ドイツや米国の大学で学位を取っている人も多いですが、ドイツ語や英語が第一言語になっていないようです。あるいは、日本語が不自然で意味を成さなくても、聖書は逐語訳するものだという信念があるのかもしれません。一部の研究者は、聖書の原文の真の意味を理解しているかもしれませんが、それが一般の信徒に伝わっていないのが現状のようです。一部の聖職者のみが(ラテン語の)聖書を理解できて、民衆は聖書が読めなかった中世のヨーロッパとあまり変わっていないのでしょう。
来年はMartin Lutherの宗教改革500周年を記念して、「日本語で書き下ろす旧新約聖書注解」が刊行される予定です。その公式サイトの「監修者コメント」のページにある、聖書の研究者である山我哲雄氏が以下のコメントを出しています。
これまでもっぱら欧米の研究を受容、消化することが中心であった日本の聖書学も、ようやく「一人立ち」するに十分な蓄積と熟成を達成したということであろう。
日本語訳の聖書の現状から見ると、実際は「一人立ち」には程遠い段階かもしれません。少なくとも、一般の信徒に限れば、日本と欧米では聖書に対する理解は雲泥の差があるようです。この事態を解決するには、まず逐語訳(不自然な翻訳)をしないことですが、そういう動きは全く見られません。
unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains alone; but if it dies, it bears much fruit. (English Standard Version)
unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it priduces many seeds. (New International Version)
si le grain de blé ne tombe en terre et ne meurt, il reste seule; mais s'il meurt, il porte beaucoup de fruit. (LA Sainte BIBLE version Louis Segond 1978)
Wenn das Weizenkorn nicht in die Erde fällt und erstirbt, bleibt es allein; wenn es aber erstirbt bingt es viel Frucht. (Die Bibel nach Martin Luther (1984年改訂))
ἐὰν μὴ ὁ κόκκος τοῦ σίτου πεσὼν εἰς τὴν γῆν ἀποθάνῃ, αὐτὸς μόνος μένει· ἐὰν δὲ ἀποθάνῃ, πολὺν καρπὸν φέρει.
私は、ギリシャ語はほとんど分かりませんが、英仏独の各訳を見る限り、前のコメントで引用した日本語訳もギリシャ語の原文を逐語訳したのでしょう。少なくとも、英独仏の各訳を逐語訳すれば、前のコメントの日本語訳になりますね。ヨーロッパ諸語では「比喩的な表現」とのことで、こういった表現が不自然ではないようですが、日本語にそのまま訳したら意味が成り立ちませんね。聖書を日本語に翻訳した人たちは、この事に疑問を持たなかったのか、不思議に思います。
日本の聖書の研究者は、ドイツや米国の大学で学位を取っている人も多いですが、ドイツ語や英語が第一言語になっていないようです。あるいは、日本語が不自然で意味を成さなくても、聖書は逐語訳するものだという信念があるのかもしれません。一部の研究者は、聖書の原文の真の意味を理解しているかもしれませんが、それが一般の信徒に伝わっていないのが現状のようです。一部の聖職者のみが(ラテン語の)聖書を理解できて、民衆は聖書が読めなかった中世のヨーロッパとあまり変わっていないのでしょう。
来年はMartin Lutherの宗教改革500周年を記念して、「日本語で書き下ろす旧新約聖書注解」が刊行される予定です。その公式サイトの「監修者コメント」のページにある、聖書の研究者である山我哲雄氏が以下のコメントを出しています。
これまでもっぱら欧米の研究を受容、消化することが中心であった日本の聖書学も、ようやく「一人立ち」するに十分な蓄積と熟成を達成したということであろう。
日本語訳の聖書の現状から見ると、実際は「一人立ち」には程遠い段階かもしれません。少なくとも、一般の信徒に限れば、日本と欧米では聖書に対する理解は雲泥の差があるようです。この事態を解決するには、まず逐語訳(不自然な翻訳)をしないことですが、そういう動きは全く見られません。
Re: 該当箇所の他言語訳と原文
チョルスさん
>ヨーロッパ諸語では「比喩的な表現」とのことで、こういった表現が不自然ではないようですが、日本語にそのまま訳したら意味が成り立ちませんね。聖書を日本語に翻訳した人たちは、この事に疑問を持たなかったのか、不思議に思います。
本当に不思議ですね。「『聖書』の現存の日本語訳は、難解なのではなく、日本語として意味を成さないのだ」とはっきり言った人は、F爺以前にはいなかったのでしょうか。
>一部の研究者は、聖書の原文の真の意味を理解しているかもしれませんが、
さあ、どうでしょうか。完璧な翻訳は、どんな言語間でも不可能です。しかし、原文の真の意味を理解している人には、伝えるべきことをまともな日本語に翻案することが出来るはずです。既存の語彙では言い表せないことなら、造語して説明すれば良いのです。
>[山我哲雄氏のコメントに反して]日本語訳の聖書の現状から見ると、実際は「一人立ち」には程遠い段階かもしれません。少なくとも、一般の信徒に限れば、日本と欧米では聖書に対する理解は雲泥の差があるようです。この事態を解決するには、まず逐語訳(不自然な翻訳)をしないことですが、そういう動きは全く見られません。
程遠い段階です。「逐語訳は、翻訳ではない」そして「逐語訳しかしない人や逐語訳のみを発表する人は、何も理解していない」という自明のことが常識にならない限り、何も始まりません。
欧米人にとっても、『聖書』は、すらすら読める本ではありません。まず文体が古めかしい。そして、比喩は、初めて読んだ人が素直に理解できるものばかりではありません。
>ヨーロッパ諸語では「比喩的な表現」とのことで、こういった表現が不自然ではないようですが、日本語にそのまま訳したら意味が成り立ちませんね。聖書を日本語に翻訳した人たちは、この事に疑問を持たなかったのか、不思議に思います。
本当に不思議ですね。「『聖書』の現存の日本語訳は、難解なのではなく、日本語として意味を成さないのだ」とはっきり言った人は、F爺以前にはいなかったのでしょうか。
>一部の研究者は、聖書の原文の真の意味を理解しているかもしれませんが、
さあ、どうでしょうか。完璧な翻訳は、どんな言語間でも不可能です。しかし、原文の真の意味を理解している人には、伝えるべきことをまともな日本語に翻案することが出来るはずです。既存の語彙では言い表せないことなら、造語して説明すれば良いのです。
>[山我哲雄氏のコメントに反して]日本語訳の聖書の現状から見ると、実際は「一人立ち」には程遠い段階かもしれません。少なくとも、一般の信徒に限れば、日本と欧米では聖書に対する理解は雲泥の差があるようです。この事態を解決するには、まず逐語訳(不自然な翻訳)をしないことですが、そういう動きは全く見られません。
程遠い段階です。「逐語訳は、翻訳ではない」そして「逐語訳しかしない人や逐語訳のみを発表する人は、何も理解していない」という自明のことが常識にならない限り、何も始まりません。
欧米人にとっても、『聖書』は、すらすら読める本ではありません。まず文体が古めかしい。そして、比喩は、初めて読んだ人が素直に理解できるものばかりではありません。
Re: Re: 該当箇所の他言語訳と原文
チョルスさん
追伸です。
フランス語訳の引用に一箇所、誤記があります。
>si le grain de blé ne tombe en terre et ne meurt, il reste seule; mais s'il meurt, il porte beaucoup de fruit. (LA Sainte BIBLE version Louis Segond 1978)
正しくは、次の通りです。
si le grain de blé ne tombe en terre et ne meurt, il reste seul; mais s'il meurt, il porte beaucoup de fruit.
主語の「le grain de blé」が男性単数名詞ですから、それを受ける代名詞も三人称単数男性で「il」、その叙述形容詞も「seul」と男性単数形でなくてはなりません。
追伸です。
フランス語訳の引用に一箇所、誤記があります。
>si le grain de blé ne tombe en terre et ne meurt, il reste seule; mais s'il meurt, il porte beaucoup de fruit. (LA Sainte BIBLE version Louis Segond 1978)
正しくは、次の通りです。
si le grain de blé ne tombe en terre et ne meurt, il reste seul; mais s'il meurt, il porte beaucoup de fruit.
主語の「le grain de blé」が男性単数名詞ですから、それを受ける代名詞も三人称単数男性で「il」、その叙述形容詞も「seul」と男性単数形でなくてはなりません。
誤打鍵でした
誤記のご指摘、ありがとうございます。
確認してみたら、確かに「seule」ではなく「seul」でした。前のコメントの送信前に、誤打鍵が無いか目を通したのですが、この箇所は見落としていました。
確認してみたら、確かに「seule」ではなく「seul」でした。前のコメントの送信前に、誤打鍵が無いか目を通したのですが、この箇所は見落としていました。
Re: 誤打鍵でした
チョルスさん
「ヨハネ伝」のこの一節、ギリシャ語版、ドイツ語訳、フランス語訳では「麦の種という物/ 麦一粒」に相当する語句が定冠詞付きになっているのに、英語訳でだけ「a grain of wheat」「a kernel of wheat」と不定冠詞付きになっていることにはお気付きですか。
英語の冠詞の使い方は、例外だらけで、ドイツ人やフランス人の英語学習者泣かせです。
「ヨハネ伝」のこの一節、ギリシャ語版、ドイツ語訳、フランス語訳では「麦の種という物/ 麦一粒」に相当する語句が定冠詞付きになっているのに、英語訳でだけ「a grain of wheat」「a kernel of wheat」と不定冠詞付きになっていることにはお気付きですか。
英語の冠詞の使い方は、例外だらけで、ドイツ人やフランス人の英語学習者泣かせです。
Re: Re: Re: 誤打鍵でした
チョルスさん
もう一つ追伸です。
英語訳(New International Version)にも誤打鍵が一つありました。
unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it priduces many seeds.
となっていますが、
正しくは、
unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.
ですね。
素直に理解できる日本語訳を考え付きました。明日(= 日本時間では2月16日の夕刻)、掲載します。
もう一つ追伸です。
英語訳(New International Version)にも誤打鍵が一つありました。
unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it priduces many seeds.
となっていますが、
正しくは、
unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.
ですね。
素直に理解できる日本語訳を考え付きました。明日(= 日本時間では2月16日の夕刻)、掲載します。
英語の冠詞
英語訳(New International Version)の誤打鍵のお知らせ、ありがとうございます。確かに「produces」でした。
「麦の種という物/ 麦一粒」に相当する語句で、英語訳だけが不定冠詞であることは気付いていましたが、ギリシャ語版、ドイツ語訳、フランス語訳では定冠詞になっているのには、(引用のために写すことに気を取られていて)気付きませんでした。
それで思い出したのが、F爺さんが「七人の侍(2)」のコメント欄で、「一般に、英語は、「詰めの甘い」言語です」と書かれていた事です。英語の冠詞の使い方が例外だらけなのは、「詰めの甘さ」があるからでしょうかね。
「麦の種という物/ 麦一粒」に相当する語句で、英語訳だけが不定冠詞であることは気付いていましたが、ギリシャ語版、ドイツ語訳、フランス語訳では定冠詞になっているのには、(引用のために写すことに気を取られていて)気付きませんでした。
それで思い出したのが、F爺さんが「七人の侍(2)」のコメント欄で、「一般に、英語は、「詰めの甘い」言語です」と書かれていた事です。英語の冠詞の使い方が例外だらけなのは、「詰めの甘さ」があるからでしょうかね。
Re: 英語の冠詞
チョルスさん
>英語の冠詞の使い方が例外だらけなのは、「詰めの甘さ」があるからでしょうか
冠詞の使い方などが例外だらけだから詰めが甘いのか、詰めが甘いから例外だらけなのか、議論の分かれるところです。
英語は、とにかく、慣用句の非常に多い言語です。母言語話者でない人が英語を第一言語にするのは、大変なことです。
>英語の冠詞の使い方が例外だらけなのは、「詰めの甘さ」があるからでしょうか
冠詞の使い方などが例外だらけだから詰めが甘いのか、詰めが甘いから例外だらけなのか、議論の分かれるところです。
英語は、とにかく、慣用句の非常に多い言語です。母言語話者でない人が英語を第一言語にするのは、大変なことです。
冠詞について
「ヨハネ伝」のこの一節、ギリシャ語版、ドイツ語訳、フランス語訳では「麦の種という物/ 麦一粒」に相当する語句が定冠詞付きになっているのに、英語訳でだけ「a grain of wheat」「a kernel of wheat」と不定冠詞付きになっていることにはお気付きですか。
英語の冠詞の使い方は、例外だらけで、ドイツ人やフランス人の英語学習者泣かせです。
以前から気になってはいたのですが、ずっと聞きそびれたいたことがあります。それは、西欧諸語における冠詞の使い方の違いについてです。
例えば英語、フランス語、ドイツ語(イタリア語、スペイン語……)では、冠詞の使い方には大きな違いがあるのでしょうか。それとも、フランス語やドイツ語などの西欧諸語と比べると、英語においてだけ、あるいは英語において特に、冠詞の使い方に例外が多く、他の西洋諸語における冠詞の用法との共通項が少ないのでしょうか。そしてそのことが、フランス語話者やドイツ語話者など、既に自らの第一言語で冠詞の使い方に習熟している者にとって困りの種になっている、ということでしょうか。
以前、生駒山か鞍馬山かに一緒に登った時、「冠詞の使い方はフランス語と英語とでは違うんですよ、R君」と言ったはったのを、コメントのやりとりを読んで思い出しました。僕はその内容を詳しく聞きたかったのですが、山登りの素敵な時間の最中だったこともあり、あまり込み入った話をして登山の雰囲気が壊れてもいけないな、と思い、泣く泣く遠慮したのです。その時から、ずっと気になっていました。
西欧諸語、スラヴ諸語を学習する時にいつも不思議に思って、そして、結局最後までずっとピンとこないのが冠詞の存在なのです。その意味、用法……。
きっと上に書いたことをきちんと説明しようと思ったら、すぐに何千頁もの分厚い本になってしまうのでしょうね。
余談ですが、そのとき歩きながら剛一さんは、遥か昔、剛一さんがまだ英語の習得途上でいはった時、英英辞書じゃない場合は英仏辞書を使っていて、英和辞書というものは使わなかった、と言ったはったのも、とても印象に残っています。
英語の冠詞の使い方は、例外だらけで、ドイツ人やフランス人の英語学習者泣かせです。
以前から気になってはいたのですが、ずっと聞きそびれたいたことがあります。それは、西欧諸語における冠詞の使い方の違いについてです。
例えば英語、フランス語、ドイツ語(イタリア語、スペイン語……)では、冠詞の使い方には大きな違いがあるのでしょうか。それとも、フランス語やドイツ語などの西欧諸語と比べると、英語においてだけ、あるいは英語において特に、冠詞の使い方に例外が多く、他の西洋諸語における冠詞の用法との共通項が少ないのでしょうか。そしてそのことが、フランス語話者やドイツ語話者など、既に自らの第一言語で冠詞の使い方に習熟している者にとって困りの種になっている、ということでしょうか。
以前、生駒山か鞍馬山かに一緒に登った時、「冠詞の使い方はフランス語と英語とでは違うんですよ、R君」と言ったはったのを、コメントのやりとりを読んで思い出しました。僕はその内容を詳しく聞きたかったのですが、山登りの素敵な時間の最中だったこともあり、あまり込み入った話をして登山の雰囲気が壊れてもいけないな、と思い、泣く泣く遠慮したのです。その時から、ずっと気になっていました。
西欧諸語、スラヴ諸語を学習する時にいつも不思議に思って、そして、結局最後までずっとピンとこないのが冠詞の存在なのです。その意味、用法……。
きっと上に書いたことをきちんと説明しようと思ったら、すぐに何千頁もの分厚い本になってしまうのでしょうね。
余談ですが、そのとき歩きながら剛一さんは、遥か昔、剛一さんがまだ英語の習得途上でいはった時、英英辞書じゃない場合は英仏辞書を使っていて、英和辞書というものは使わなかった、と言ったはったのも、とても印象に残っています。
Re: 冠詞について
R君
冠詞の種類と用法は、言語ごとに違います。「複数不定冠詞」があったり無かったり、「部分冠詞」があったり無かったり、名詞の性・数・格に照応したりしなかったりします。マケドニア語、ブルガリア語、ルーマニア語、スウェーデン語のように「定冠詞の役割を担うもの」が接尾辞として名詞に後置する言語もあります。
英語をフランス語や他のゲルマン諸語と比べた場合に、顕著な違いが目立ちます。例えば、ギリシャ語やドイツ語やフランス語だったら定冠詞無しでは文が成立しない所で、英語では頻繁に無冠詞の名詞が現れます。
>きちんと説明しようと思ったら、すぐに何千頁もの分厚い本になってしまうのでしょうね。
「何千ページもの分厚い多言語併用論文」になってしまいます。本にしてみても売れる見込みは無いし、労多くして実りの少ないことですから、恐らく誰も書かないと思います。
習得したい個々の言語について、原則と例外を一つ一つ覚えて行くしかありません。
冠詞の種類と用法は、言語ごとに違います。「複数不定冠詞」があったり無かったり、「部分冠詞」があったり無かったり、名詞の性・数・格に照応したりしなかったりします。マケドニア語、ブルガリア語、ルーマニア語、スウェーデン語のように「定冠詞の役割を担うもの」が接尾辞として名詞に後置する言語もあります。
英語をフランス語や他のゲルマン諸語と比べた場合に、顕著な違いが目立ちます。例えば、ギリシャ語やドイツ語やフランス語だったら定冠詞無しでは文が成立しない所で、英語では頻繁に無冠詞の名詞が現れます。
>きちんと説明しようと思ったら、すぐに何千頁もの分厚い本になってしまうのでしょうね。
「何千ページもの分厚い多言語併用論文」になってしまいます。本にしてみても売れる見込みは無いし、労多くして実りの少ないことですから、恐らく誰も書かないと思います。
習得したい個々の言語について、原則と例外を一つ一つ覚えて行くしかありません。